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「天下布武」&「岐阜」 

2018年12月27日 外部ブログ記事
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戦国時代1

 ☆「天下布武」とは、「天下に七徳の武を布く」という意味
 ☆岐阜は「周の文王が岐山(阜)より起こり、天下を定む」という故事にちなんで命名した

戦国時代の前半
 ☆応仁の乱以後、管領職を独占した細川氏が政治の実権を握った
 *時代区分は室町幕府の時代だが、実質的には「細川政権」と呼ぶべきだ
 ☆細川氏もまた盤石ではなく、 一族内で何年も争いを続けた
 *細川政権には全国を統治する力などない
 *各地の守護大名や有力武士たちを抑えることはできなかった
 ☆武士と同じくらい力を持っていたのは寺院である
 *武器を持った僧たちの集団は強大で、武力にものをいわせて土地を奪った
 *守護大名を領地から追放し、自治領を作ったところもある
 ☆弱肉強食の流れは16世紀に入ってさらに加速
 *戦国大名と呼ばれる存在が台頭し、先駆けが関東を支配した北条早雲
 *戦国大名の多くが伝統的な守護大名ではなく、新興の勢力であった
 ☆戦国大名たちの領土は「分国」と呼ばれた
 *室町幕府や将軍の存在は形だけのものとなる
 *「分国」それぞれが独自のルールで統治する独立した国家のような存在
戦国時代の後半
 ☆戦国時代に最初に京都を支配したのは、畿内一円を支配していた三好長慶
 *長慶は細川晴元を京都から放逐し、実質的な政権を握った
 *その力もまた細川政権と同様、全国を支配できるほどではなかった
 ☆政治の実権は、長慶から三好家の家臣の松永久秀に受け継がれていく
 *久秀も畿内の平定に精一杯で、天下統一を目指すことはなかった
室町幕府の滅亡
 ☆戦国大名の中で、急速に勢力を伸ばしていたのが織田信長だった
 ☆桶狭間で今川義元を破った信長は、近隣の敵を滅ぼし領地を拡大していった
 ☆信長は、自らの朱印に「天下布武」という文字を用い始める
 ☆信長は、城下町「井ノロ」の地名を「岐阜」に改めているからだ。
 ☆13代将軍足利義輝が三好家の家臣である三好三人衆に暗殺される
 *三好三人衆は義輝の従兄弟を将軍にして、自分たちの愧儡とした
 *奈良に逃れていた足利義昭は、岐阜の織田信長に上洛を要請した
 ☆信長は足利義昭を奉じて上洛し、三好三人衆を四国へ追い払った
 *信長は、義昭を15代将軍に擁立して、政治的実権を手にした
 *その後、信長は義昭と対立し義昭を京都から追放する
 ☆室町幕府は、240年の歴史に幕を開じた
乱世の怪物、織田信長
 ☆天下統一を狙う信長は、強大な兵力を手にするために、経済力を持とうと考えた
 ☆楽市 楽座を敷き、城下町の経済を振興させた
 *商人たちの組合のような存在であった「座」を廃止し、経済活性化を図った
 *現代風にいえば、「規制緩和」と「減税」である
 ☆撰銭令(良銭と悪銭の交換レートを定める)などの貨幣改革を行なう
 ☆大きな財力を掴んだ信長は、他の戦国大名にはないアドバンテージを手に入れる
 ☆信長は、商人たちから「みかじめ料」を取っていた寺社勢力と真っ向から対立する
 *僧兵たちは武器を持っていた上に、彼らと戦う兵たちが仏罰を恐れた
 ☆信長は仏教を恐れなかった
 *延暦寺との戦いでは、寺を焼き尽くし、僧だけでなく女性や子供まで数千人を皆殺しにした
 *伊勢長島の一向一揆鎮圧の際も、女性や子供を含む二万人を皆殺しにしている
 *日本の歴史上かつてない大虐殺
 ☆信長は、戦国大名との戦いにおいては、勝った後に相手の兵隊や住民を殺害することはなかった
 *信長が皆殺しにしたのは一向宗などの宗教を背負った一揆に限られた
 *信長が、宗教のもたらす狂信的な力を憎むとともに、その勃興を恐れた証でもある
 ☆織田信長の出現は日本史におけるエポックメーキングな出来事である
 *信長は、古い社会通念に縛られない、近代的な合理主義に基づく考え方をする人物だった
 *自らの家臣も、身分や出自に囚われることなく、能力がある者はどんどん出世させた
 *鉄砲をいち早く取り入れたのも信長である
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
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出典、『日本国紀』








「天下布武」&「岐阜」(ネットより画像引用)

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