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歴代天皇にカウントされない北朝5代の天皇 

2018年12月24日 外部ブログ記事
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鎌倉時代〜応仁の乱3

鎌倉の仏教
 ☆平安時代末期から鎌倉時代にかけては、戦乱と飢饉がたびたび起きた
 ☆末法思想が流行し、同時に、庶民の間に救いを求める風潮が強まっていた
 ☆鎌倉時代の仏教は、現代にまで続く二つの流れに大別できる
 *『南無阿弥陀仏』と念仏を唱えれば極楽に行けるという、大衆を救う教えである
 (法然らの教えは庶民の間にまたたくまに広まっていった(浄土宗、浄土真宗))
 *もう一方の仏教の流れは「禅」
 (「禅」は座禅などの修行によって自らを救済するという教え)
 (禅の厳しい修行は鎌倉武士に受け入れられて、全国に広まった)
 ☆日本独自の神道理論が形成された(伊勢神道)
後醍醐天皇の討幕運動
 ☆鎌倉時代の天皇には政治的な実権はなく、内輪の後継者争いに明け暮れていた
 ☆後深草上皇と弟亀山天皇の間で、どちらの子供を次の天皇にするかで争いが起こった
 *二人の子孫は各々幕府の支持を得ようと働きかける
 *幕府はたびたび調停役となる
 *後深草上皇と亀山上皇の子孫から交互に皇太子を立てることを提案し了承を得た
 *後深草上皇側の系統を「持明院統」、亀山上皇側の系統を「大覚寺統」と呼ぶ
 ☆二つの系統は、その後も皇位継承をめぐって争いを続ける
 *後の「南北朝」の対立を生むもとともなった
 ☆後醍醐天皇(大覚寺統)の活動
 *二つの系統の争いに終止符を打つ
 *天皇が自ら政治を行なう親政を復活させようれ考えた
 ☆後醍醐天皇は、討幕を計画するが、幕府軍に捕らえられて隠岐に流す
 *幕府は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光厳天皇を即位させる
 ☆この事件がきっかけとなり、鎌倉幕府に不満を持つ各地の武士が次々と蜂起する事態となった
悪党、楠木正成の挙兵
 ☆後醍醐天皇が隠岐に流され、河内国の悪党、楠木正成が挙兵した
 ☆鎌倉幕府は正成を追討するために十万人の大軍を送った
 ☆楠正成は、千人の軍勢で千早城という小さな山城に籠もって、これを迎え撃った
 ☆幕府軍がどれほど攻めても千早城を落とすことはできなかった
 ☆幕府軍が千早城にかかりきりになっている時、後醍醐天皇は隠岐を脱出し討幕の兵を挙げた
 ☆幕府は後醍醐天皇軍の討伐と千早城攻めのため、援軍として、御家人の足利尊氏を派遣
 *尊氏は幕府を裏切り、幕府の出先機関である京都の六波羅探題を攻め落とした
 *千早城は百倍の軍勢を相手に、半年以上も戦い、幕府軍を釘付けにしていた
 ☆幕府は、新田義貞に千早城を攻めるための高額の戦費を要求した
 *義貞がこれに応じなかつたため、幕府は義貞追討令を出した
 *怒った義貞は逆に鎌倉に攻め込み、この戦いによって北条高時は自害し幕府は滅亡した
建武中興
 ☆鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京都に入り親政を行なった
 ☆後醍醐天皇の恩賞は、たいした働きをしなかった公家に厚かった
 ☆武士の間で不満の声が高まった
 *六波羅探題を滅ぼした足利尊氏も重要な役職に就けなかった
 *北条高時の息子、時行が建武の新政に対する反乱を起こした
 ☆尊氏は弟を守るために、後醍醐天皇の許可を得ることなく、鎌倉に出兵して反乱軍を鎮圧
 *尊氏はそのまま京都に帰らず、自分に付き従った武将たちに独断で恩賞を与える
 ☆後醍醐天皇は尊氏の謀反を疑い、新田義貞に尊氏追討令を出す
 *尊氏に代わって足利一族を率いた弟の直義が朝廷軍に打ち破られた
 *尊氏は京都まで進軍するが、ここで北畠顕家や楠木正成との戦いに敗れ、九州へ逃げる
 ☆尊氏は、光厳上皇の支持を得て「官軍」を名乗る
 *西日本各地の武将を味方に引き入れ再び京都に攻め上った。
 *楠木正成はこの状況を見て、後醍醐天皇に対して、尊氏と和睦することを進言する
 *天皇や側近の不興を買い、正成は国許での謹慎を命じられる
 *尊氏を迎え撃った朝廷軍の総大将、新田義貞が敗北を続けたため、後醍醐天皇は楠木正成を呼び戻す
 *正成は敗れて戦死する(新田義貞も戦死)。
 ☆尊氏は湊川の戦いの後、京都に入って後醍醐天皇を追い払う
 *持明院統の光明天皇(光厳上皇の弟)を即位させ、政治の実権を握った
 ☆天皇の親政による建武政権はわずか三年で瓦解
南北朝時代
 ☆後醍醐天皇は足利尊氏との和睦のしるしとして、三種の神器を光明天皇に譲り京都に幽閉された
 ☆後醍醐天皇は、密かに吉野に脱出し、自分こそが真の天皇であると宣言した
 ☆京都の天皇(北朝)と吉野の天皇(南朝)の二つの朝廷が存在するという前代未聞の事態となる
 ☆南朝を正統とする者たちと、北朝を正統とする者たちが内乱を繰り返すこととなる
 ☆明治の国定教科書で南朝を正統とし、北朝は認められなくなった
 *大東亜戦争終結まで、「南北」という言葉は学会では禁句となる
 ☆現在、北朝の五代の天皇は、歴代天皇百二十五代の中には数えられていない
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出典、『日本国紀』








歴代天皇にカウントされない北朝5代の天皇
(ネットより画像引用)

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