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731部隊長石井四郎、日本特殊工業?宮本光一の所有土地について 

2018年12月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



人骨の会(軍医学校跡地から発見した人骨問題を究明する会:代表常石敬一)のニュースが送られてきました。
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先日の例会に、長谷川順一さん他二名の方の参加があり、新たな情報が寄せられたので、その一部を紹介したい。それは、戦前・戦後を通じて新宿若松町に住んでいた石井四郎と、七三一部隊の御用企業であった日本特殊工業(社長・宮本光一)に関する内容である。
報告としては、平房への七三一部隊建設の一端を担ったと思われる日本特殊工業関係者に関しての親族からの情報と、登記簿資料に基づいた石井の居住地と日本特殊工業との関係に関する情報であった。後者については、直接参加者からの記事にお任せする。前者に関しては、七三一部隊建設当時、哈爾浜出張所に詰め、後に設計部第一主任を任じられた元日本特殊工業の中川政雄氏のご子息、中川三郎さんの記事*1とお話に基づいて、鳥居が内容を整理した。
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「中川三郎さんの記事*1」は、ブログ記事>エッセイ 「寒天のお話  ――母の731オーラルヒストリ――」 中川三郎<であるのでご参照下さい。。
ニュースに掲載されている「登記簿資料に基づいた石井の居住地と日本特殊工業との関係に関する情報」は下記の文章です。
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石井四郎、宮本光一と日本特殊工業?の所有土地について
        門前教三
東北大震災が起こる七か月前の事(2010年)だった。私は人骨の会のレター会員である友人から、例の石井部隊の隊長であった石井四郎の自宅跡が新宿区若松町にあり、そこは分譲マンションになっていると聞いた。しかもその場所は当時の軍医学校の近くだというのだ。私は建設コンサルタントとして、土地の履歴調査に携わっており、私の事務所は同じ新宿区であり、若松町は近い。あの731部隊の隊長が住んでいた場所か、がぜん興味がわいた。
早速、友人から教えられた若松町のマンションを見に行った。まずは現場周辺を確認する。大久保通りが、かくんと曲がるところの若松町24,25番地の西側先から、南に入る細い道路の先だ。確かに当時の軍医学校、現国立医療センターのすぐ近くだ。確かに友人から教えられた場所には、分譲マンションと思われるRC造の建物がある。現場確認の後、東京法務局新宿出張に出向き、当該建物の土地の登記を確認した。そして当該土地の地番周辺の土地の閉鎖登記簿の閲覧を行った。当該建物の土地の履歴を調べ、その変遷の手がかりを探すのだ。当該土地若松町77−7番地を中心に閉鎖登記簿を地番順に閲覧する。そしたら、77−21番地の土地所有者名に石井四郎とある。私は77−21番の閉鎖土地謄本と77−21、7番の公図、旧公図を申請した。間違いなく石井四郎名義の土地が存在し、その21番は現況では新宿区の道路になっている。
この事実を私は、忙しさにかまけて、そのままにしていた。そして月日は流れた。本年(2018年)5月、私の別の友人の父が日本特殊工業?に昭和12年頃勤務していて、ハルピンにいっていたということを打ち明けた。日本特殊工業?は731部隊の設備に関わっており、友人の母上の話では、日本特殊工業?の社宅は若松町にあり、当時友人の親子三人は社宅に住んでいたという。その友人は父上が務めていた日本特殊工業?を調べたいという。私と友人は「若松町プロジェクト」を立ち上げた。
私は石井四郎と日本特殊工業?の痕跡を、土地を中心に調べることを提案した。友人は父上の経歴に出てくる日本特殊工業?の会社としての記録を調べ始めることにした。友人が調べた会社の経歴では、宮田光一という人が当時の社長であるという。
私は、若松町全部の旧土地台帳を2日かけて、閲覧調査した。旧土地台帳の閲覧は閲覧料がかからない。そして戦前の現在の住宅地図に該当する「火災保険特殊図」の旧牛込区と淀橋区版に於いて、若松町と若松町に接する町を全部調べた。
また日本特殊工業?が二次大戦中、京浜工業地帯に工場があったとする記録から、品川区旧大森区、蒲田区の「火災保険特殊図」を全部閲覧した。旧土地台帳を全部閲覧することは不可能に近いからだ。
判明した事実を以下に挙げる。このことは、土地謄本、旧土地台帳、火災保険特殊図から判明したことであり、「公知の事実」として公にすることは問題が無いと思う次第である。

新宿区若松町について
旧土地台帳と閉鎖登記簿によれば、石井四郎の旧宅(地番若松町77−7番地 現住所若松町22-30)は宮本光一が昭和9年7月3日入手した。そして宮本光一から昭和34年7月27日に石井誠一に売却されている。石井誠一は石井四郎の長男である。宮本光一が入手した時点の土地の面積は180.74坪である。
同77−7番地の「火災保険特殊図昭和12年10月5日発行」には石井四郎名の住宅が記載されている。ということは、宮本光の坪数と、火災保険特殊図を見れば、RC造のかなり大きな建物であったことが推定される。ということは同土地を宮本光一が石井四郎に貸し、石井四郎が建物を建築したことになるのか。石井四郎名義の建物閉鎖謄本は発見できなかった。
石井四郎名義の同77−21番の土地は同77−7番地の敷地延長道路部分として昭和29年2月26日に石井四郎が取得している。これは石井四郎が亡くなる10か月前のことである。袋地の建物を保全するための登記と思われる。77-21土地と77-7土地の前所有者は同一人である。この延長道路はかなり長く、大久保通りに接続する。
旧土地台帳によれば、地番若松町55−1番の土地(現住所若松町28-3)を宮本光一は昭和9年6月7日に178坪を取得している。これは若松町の当時の電車道の北側である。「火災保険特殊図昭和12年10月5日発行」にも、日本特殊工業?の建物記載がある。この土地は日本特殊工業?の事務所であったと推定される。
友人の母上がいう社宅と思われる土地は、探し出すことができなかった。

品川区東品川4丁目(当時)の日本特殊工業?工場土地について
京浜工業地帯を調べる前に大田区史、品川区史を調べた。二次大戦中の記録の中で、品川区の労働運動史の中で、翼賛体制ができ労働組合が産業報国会になった記録の中に、日本特殊工業産業報国会が出てきた。これを手掛かりに、品川区の同社の工場土地の住所が判明した。旧土地台帳を探すと、合計9筆の宮本光一、日本特殊工業?所有の土地が出てきた。
東品川4丁目40-4番地土地(現住所同3丁目19-2)を宮本光一が昭和14年2月8日に取得している。後に日本特殊工業?へ売却。同40-5,6を昭和16年6月14日に日本特殊工業?が取得している。
東品川4丁目35-2,5,7,8(現住所同3丁目17-25)を日本特殊工業?が昭和13年から16年にかけて取得している。
東品川4丁目36-1,2(現住所同3丁目17-15,16)を日本特殊工業?が昭和16年6月14日に取得している。
計9筆の土地に、「火災保険特殊図昭和13年6月30日発行」において日本特殊工業?の建物が記載されている。日本特殊工業?の土地取得の前から土地の一部を使用していたと思われる。
現住所で3ブロックを使う大きな工場であった模様である。同上の工場群は空襲で焼けた模様だが、戦後の昭和27,29年まで日本特殊工業?が土地を持ち続けた。昭和29年12月17日までにすべて売却された。現在は都営住宅や民間企業の土地となっている。

私たちの「若松町プロジェクト」は731部隊を支えた、軍の下請けである会社、会社の経営者に肉薄して行きたいと思う。

石井四郎名義の若松町77−21番の土地

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(了)

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