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『一所懸命』が語源『一生懸命』 

2018年12月22日 外部ブログ記事
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鎌倉政権1

鎌倉政権誕生
 ☆平氏滅亡の最大の功労者は源義経
 *源氏の棟梁である頼朝はこれを快く思わなかった
 ☆義経が頼朝の許可を得ずに、後白河法皇から位を得た
 ☆法皇の信頼と武士たちの信望を得た義経の謀反を恐れ、頼朝は討伐を決意する
 ☆義経は鎌倉の軍勢に追われ、東北へ逃げ奥州藤原氏に匿われる
 ☆藤原当主の秀衡は、義経を引き渡せという頼朝の命令を拒絶する
 *義経を将軍に立てて鎌倉と一戦交えようと考えた
 ☆秀衡は病没し、息子の泰衡は、頼朝の追討要請に従って義経を殺す
 ☆頼朝は、義経を匿ってきた罪で、奥州藤原氏を滅亡させる
 *頼朝は権力を確固たるものにした
 ☆頼朝の死後、二代将軍の息子の頼家は暗殺され、弟の実朝が三代将軍となる
 *実朝は、頼家の息子の公暁に殺される
 *公暁は執権の北条氏によって討ち取られる
 ☆頼朝の死後20年で頼朝の血筋は絶える
 ☆鎌倉幕府の実権を握ったのは北条氏
承久の乱
 ☆後鳥羽上皇は、頼朝の血筋が絶えたことで、鎌倉幕府の北条義時追討の院宣を発す
 ☆鎌倉政権に不満を持つ武士や僧兵などが挙兵した
 ☆鎌倉幕府は朝廷側の命令に動揺したが、上皇側と戦う決意をする
 ☆鎌倉で上皇の軍勢を迎え撃とうという当初の計画を取りやめて、京都へ攻め上った
 ☆後鳥羽上皇に味方する武士は予想よりも少なく、戦いは鎌倉側の圧勝に終わった
 ☆幕府の処分
 *後鳥羽上皇、同徹上皇、土御門上皇を、隠岐、佐渡、土佐に流した
 *上皇の近臣の貴族や武士たちを処刑し、その所領(土地)を没収した
 ☆鎌倉幕府は、承久の変後、実質的に全国を支配し、完全な鎌倉幕府の時代に入った
 ☆「御成敗式目」が定められ、武士が政権を管理するための法典ができた
 *時代は貴族社会から、武家社会へと大きく変化する
「一所懸命」と「いざ鎌倉」
 ☆鎌倉幕府は全国に御家人を置き、所領を与えた
 ☆御家人はその土地を大切に守りつつ、鎌倉幕府に忠誠を誓った
 ☆現在「一生懸命」と書かれるが、本来は「一所懸命」であった
 *自分の土地は耕し、命を懸けても守り抜くこと
 ☆御家人たちはその土地の名前を苗字として名乗ることも多かった
 *足利尊氏や新田義貞の苗字も地名を取ったもの
 ☆御家人たちは、もし鎌倉幕府に危機が迫れば、鎌倉に馳せ参じる覚悟があった
 *現在も「いざ鎌倉」という言葉として残っている
商業の発達
 ☆鎌倉時代には、貨幣経済が一層進展した
 *鎌倉幕府以前は、米や布が貨幣の代わりに用いられていた
 *鎌倉時代より、様々な物品が貨幣で売買されるようになる
 ☆政治体制が大きく変わったことにより、社会全体に変革が為された
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』






『一所懸命』が語源『一生懸命』(ネットより画像引用)

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