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「陸軍軍医学校原子爆弾調査報告資料」を世田谷原水協に報告 

2018年12月22日 外部ブログ記事
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昨日、世田谷原水協総会がありましたので参加し、18日自宅に到達した陸上自衛隊三宿駐屯地内「彰古館」の展示資料「陸軍軍医学校原子爆弾調査報告資料」を開示請求をした行政文書のことを報告しました。
理事の安部愃三さんは、中央大学商学部環境科学教授であるので、この資料をお渡しをして詳細な分析と評価をしてもらうことにしました。
代表理事の橋本博さんは、NHKスペシャル「封印された原爆報告書」を総会資料と配付されていましたので、アメリカ国立公文書館のGHQ内部文書に広島・長崎に投下された原爆の被害調査報告の中に陸軍軍医学校報告書が含まれているのではないかと発言されました。




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NHKスペシャル「封印された原爆報告書」
8月6日夜のNHKスペシャル「封印された原爆報告書」は次の事実を明らかにしました。
?アメリカ国立公文書館のGHQ内部文書に広島・長崎に投下された原爆の被害調査報告
書がある。調査対象者は2万人。181冊1万ぺ−ジの調査資料には、被爆のあり様、放射線の人体への影響などが詳細に記録されている。
?広島原爆投下の2日後、日本政府・軍部は被害状況の調査を始め、約2年間日本の総力をあげて医師や科学者ら1300名が参加し、報告書を作成、米国に渡した。
?731部隊の罪を米国に見逃してもらおうとする日本側と核兵器の効果を知りたい米国の利害が−致。調査は被爆者のために使われなかった。
?当時1万7千名の児童が76か所に分かれて建物疎開の作業に従事していた。原爆投下時にそれぞれの場所の爆心地からの距離が把握されていて、それぞれの場所での児童の死亡率がまとめられた。このデータをもとに米軍初の核戦略が作成された。
?当時ソ連への原爆投下計画が立てられ、モスクワ6発、ウラジオストック3発の原爆投下で、それぞれの都市住民を全滅させることができるとされた。
?米国人で米核戦略にかかわったジェームス・ヤマザキ氏(94歳)は「子どもの犠牲なくしてはできえない極めて貴重なもの。日本人の協力のたまもの」と証言。
(以上は、原水爆禁止2010年世界大会の世田谷代表団の報告集の橋本博の原稿に追記として書かれた部分です。)

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1 開示請求のあった行政文書の名称
 「・陸軍軍医学校原子爆弾調査報告資料
  ・Me dic al Re p o r t o f Th e A t omic B ombin g in
 Hir o s hima No v.30.1945 Army Me dic al Colt e ge
 The Fir s t Toky o Army Ho s pit al」に係る行政文書







 本文書は、平成11年(1999)4月27日、陸上自衛隊衛生学校の「彰古館」整備の際、廃品の梱包材として放置きれていたのを発見したもので、原本はわら半紙にガリ版刷りで、酸性紙のため変質が著しく、旧仮名遣いを改め複製した。
 作成時期は昭和20年(1945)の終戦直後と推察され、山形県に疎開していた軍医学校が新宿区戸山町に復員し、軍医学校跡地の管理をしていた臨時東京第一陸軍病院と合流した9月2日から、陸軍省令第56号によって軍医学校が廃止・解散となる11月26日までの間と考えられる。これは、本文内の時間経過の記述と整合する。また、文書を績じていたのは、反古紙でつくった「こより紐」であるが、これを解いたところ『臨時東京第一陸軍病院 第十五外科病室』の文字があり、これも裏付けとなる。
 本文書は、被爆直後から終戟後まで数次にわたって原爆調査団を派遣していた軍医学校が、すでに厚生省に提出していた調査報告書を簡潔にまとめて、軍医・一般医師などに対して治療法の参考資料としたものと思われる。 記 木村益雄(注)
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(注)木村益雄氏は、彰古館担当の自衛官で学芸員でもありました。陸上自衛隊退職後、しょうけい館(戦傷病者史料館)の学芸員となりました。
防衛省・自衛隊専門紙「防衛ホーム」に彰古館について連載した記事が単行本「彰古館」として同社から発刊されました。


(了)

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