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平成の虚無僧一路の日記

吉川英治『親鸞』に虚無僧が!? 

2018年12月11日 外部ブログ記事
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『宮本武蔵』『新・平家物語』など、大衆小説の大家「吉川英治」の『親鸞』に、なんと「虚無僧」の元祖「菰(こも)僧」が登場してくるのです。「親鸞」は平安末期から鎌倉時代の人。「薦(こも)」を腰につけた「菰僧」は、室町時代 1400年頃の文献には登場しますが、はたして平安末期にまで遡れるかは疑問です。吉川英治は『鳴門秘帖』など「虚無僧」が大好きでしたから、『親鸞』にも登場させたかったのでしょう。「親鸞」の命を狙うライバル「朱王房」の家人「七郎」が「菰僧・孤雲」となって、主の行く方を探します。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・母も妻も子も、また家も無い自分の境遇と似ている雲を彼(菰僧・孤雲)は、凝と見ていた。誰にとも訴へやうのない気持ちがやがて、尺八の歌口から 哀々と思ひのかぎり、細い音を吹き出したのであった。その音のうちには、人生の儚さだの、煩悩だの、愚痴だの、嘆きだのが、纏綿(てんめん)と こぐらかっているやうに聞こえた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さて、「親鸞」をこよなく愛する「吉川英治」が、本願寺に対して『折々の記』で苦言を呈しています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「今日の仏教全体のかたちなるものはすべて悉く古くさく、旧態旧臭で、新しい世人の人々には何らの魅力にはならない。江戸時代から明治以降の、長い沈滞文化期にそうなってしまったのである。伽藍、及び教団のごときは、いくらその大を恃みにしてみたところで潰え去るであろう。形のものは 捨て去るに惜しみはない。むしろ、捨てきってこそ、新しいものが、きっと生れよう」と。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・虚無僧は寺も持たず、教義も無く、決まった形も無い。そこに吉川英治は惚れていたのでしょうか。

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