メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

八十代万歳!(旧七十代万歳)

発するFMで長いお話を二話語りました___「丹後松の由来」 

2018年11月27日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



朝から眠い日が続いていて、喉も痛いのですが、午後、収録に行きました。


「丹後松の由来」
「とんべえ狐」
、30分番組にちょうど収まる長さです。


一つご紹介して、私はこの後昼寝します。



今日も、先々週に引き続き、山口県の伝説をご紹介します。


「丹後松の由来」 周防中の浦のななふしぎより再話。


このお話を語る前に少し説明がいるようです。
西暦で 1500年代の半ばごろ、周防国を治める大内義隆の重臣であった、陶晴賢が謀反を起こして、主君大内義隆を滅ぼしたことが元で、陶一族は毛利氏によって滅ぼされてしまいます。
その頃沼城という小さい城を守っていた陶一族の殿様と奥方は、家臣一同を助ける約束で、自害しました。その時幼い八重姫は、18歳のイトという 奥女中に託されたのです。
イトと恋仲であった、丹後又八郎は22歳、殿の末の弟で、丹後家を継いでいました。
落城後、家臣の命は助かるが、陶一族には厳しい処罰があるはず。丹後又八郎は、姪である八重姫と、イトを守って城を脱出し豊後に逃れようとします。その時のことを尼になったイトが50年後に語っている物語です。 それでは




「丹後松の由来」


皆さま今日は山中の薬師堂へようこそお詣り下されました。
今は寄る年波にただただ仏に仕えておりますこの婆の思い出話を、お聞きになりたいと仰せでございますか。


はい、はい、あのことがありましてから長い月日がめぐり今年は丹後又八郎さまの五十回忌のご法要が、間もなくでござります。


はい。私は徳山の奥の須須万(すすま)の在の者で、16歳で、須須万の沼城、陶さまのお城に上がり奥方様のお付きとなりました。沼城では殿様も、奥方さまもお優しい方で、わたくしを「イト、イト」と可愛がってくださり、それはそれは幸せな日々でありました。
ところが、私が十八になった年に、とんでもないことが起こったのでございます。
ご本家の当主陶晴賢さまが、謀反を起こされ、ご主君の大内義隆さまを滅ぼしてしまわれました。そこから始まりまして陶一族は毛利氏に滅ぼされることになってしまったのです。
毛利軍に囲まれた沼城では、殿様と奥方さまが、家来を助けるという約束で、自害なされたのでございます。まだ赤子でありました八重姫さまは、私に託されました。
そこへ、殿さまの末の弟君で、丹後家を継いでおられる、丹後又八郎さまが駆けつけて来られました。
又八郎さまはおん年二十二歳ながら、背が高く、武勇に優れたお方で、実を申しますと恥ずかしながら私とは二世を誓い合った仲でございました。
又八郎さまは、八重姫さまと、私ども奥女中三人を連れて抜け穴から城外に逃れました。
それからは、夜の間に山越えをし、富田(とんだ)の港を目指し、昼間は潜んで夜に港に着くと吉造さんという漁師が待っていました。数年前吉造さんの娘が丹後さまに命を助けられたとかで、この危ないお役目を引き受けて、舟に古着や食料を積んで待っていてくれたのです。吉造さんは西を目指して舟を漕ぎ続けました。戸田で夜が明けたので、岩陰に潜んで夜を待ち、次の朝は桑原まで着き、その次の朝には堀越えに着きました。
その夜も西を目指しましたが、春の嵐に翻弄され、桑原に吹き戻されてしまいました。
その晩また西を目指したものの夜が明けてしまったので、西泊に上陸しました。
そこで追っ手に見つかってしまい、船に戻れず又八郎さまが一人で追っ手を防いでいる間に、私どもは山に逃れました。又八郎さまも追っ手を追い払って、駆けつけられました。
それから山を伝って、小茅村の吉造さんの親戚を頼ろうと歩き続けました。


しかし途中で毛利の追っ手に囲まれてしまったのでございます。
「おのれ、毛利の探索方か、近寄るでないぞ、近づけば切る」追っ手が怯んだ時、又八郎さまは、追っ手の頭領に声をかけられました。
「いらざる殺生をしたくはない。貴公を男と見込んで、談合致したいが、いかがであろう」
「承りましょう」毛利方の頭領もひとかどの武士でございましょう。兜を取って腰をかがめました。
又八郎さまは静かに申されました。
「実は、豊後に渡って再起しようとここまで逃れて来たが、今や我が武運も尽きたようじゃ。わしはこの場所で潔く果てる覚悟であるが、ついては頼みがある。これなる供の者たちに罪はない。ただ忠義一途にわしについて来ただけのこと。どうか許してやってもらいたい。なお、幼児は我が娘で、イナと申すが、陶一族にあらず、丹後一族であるが故にご放免願いたい。頼みとは以上でござる」
「見上げたご覚悟のほど、感じ入りました。必ず、お志にそうことを誓約いたす。お心安らかにお旅立ちくだされ」
「ご好意のほど肝に銘じてあの世に参ります」と、又八郎さまは申されてから、私どもに向かい、
「よく同心してついて来てくれた。又八郎、厚く礼を申す。皆の幸せを草葉の陰で祈っておるぞ」と、申され、竹筒の水を一口飲んで、皆に回されました。これが別れの水杯でございました。
又八郎さまはとりわけ立派な一本の松を選んで根元に腰を下ろされ、
「さらば」と、皆に笑顔を見せ、小刀を手にして襟元を広げられました。
たまらなくなった私は、我を忘れて懐剣の鞘を払い、喉元に切っ先をあてがいますと、又八郎さまはすぐに気づかれ、
「イト!後追いはならぬぞ。そちには可愛いイナが居るではないか。母親の身で我が子を見捨てるつもりか! 生きて、イナを立派に育てるのじゃ」と、強い目の光で、八重姫さまを、私に託されたのでございます。これが最後のご遺言なれば是非もなく、せめてもの証にと、黒髪をぷっつり断ち切って泣く泣く今生のお別れをいたしました。
あの方のご最後を正視することはとても私にはできません、固く瞼を閉じて、ご念仏を唱えておりましたが、再び瞼を開いた時目に飛び込んできたそのあまりにも凄惨な有様は、今も瞼に焼き付いて、生涯消えることはございません。
作法に則って十文字にお腹を召された後立ち上がって我が手でおのれが首をはねられたのでございます。吹き上がった血潮が松の幹に飛び散って、まさに不動明王のごときお姿でありました。


私と八重姫さまががこの薬師堂に住まわせていただけるようになりましたのは、村の方々が、丹後又八郎さまの潔いご最後に心打たれ、お亡骸を親身になってお世話くださり、墓地に納めてくださってからでございます。
又八郎様が、自分の妻子であると言われた私と、イナと名を変えた八重姫さまを、薬師堂の裏に庫裏を建てて住まわせてくださったのでございます。


吉造さんと、きぬさんと、さとさんは、お咎めもなく里に帰されました。


峠道にありますこの薬師堂からは入り江を隔てて、又八郎さまが最後を遂げられた松の木が正面に見えるのでございます。


あれから10年ほどの後、あの山の持ち主さまが、木が育ったので全部伐採しようと、杣人を山にお入れになりました。
杣人は先ず一番立派なあの松に目をつけ、下枝の根元に鋸を入れたところが、真っ赤な血のような松脂が噴き出しまして、それが顔に振りかかった途端気を失い、十日も寝込んで、二度とあの山にははいりませんでした。山主さまは他の杣人を雇いましたが、あの松だけは、誰も伐ろうとしないので、山主さまも諦めて、一本松を残したのでございます。
それであの岬の頂上には、一本松だけが高々と聳えて、沖行く舟人の目印になっております。
有難いことに、根元に祠を建ててくださり、一本松は「丹後松」と呼ばれるようになったのでござります。


イナと名を改められた八重姫さまは、美しゅう成長し、今では中の関の造り酒屋に嫁がれて、五人のお子達の母親になっておられます。今でも三日に一度は里帰りというてお子様連れでここへ見えられます。


丹後松のお話はこれで終わりです。
本日は、山中の薬師堂へお参りの上、婆の下手な話を最後までお聞き取りくださいまして真に有難うございました。


皆様とこうしてお会いできたことは、お薬師様のお引き合わせと存じます。この静かな村と丹後松のことをお心の隅にとめていて下されば、何よりの喜びでございます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ