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黒船来航 明治維新 大東亜共栄圏(5) 

2018年10月25日 外部ブログ記事
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黒船来航での幕府の対応

アメリカ人流の善意の押しつけが鎖国を終わらせた
 ☆アメリカにとって捕鯨は大事な産業で避難先として日本に寄港できるようにしたかった
 ☆ペリーは、前任者の失敗に学び、恐怖に訴える方法で交渉を展開
 *大型の蒸気軍艦を動員し浦賀に姿を現し大統領の親書を手渡して引き揚げた
 ☆ペリーは再来日し、日米和親条約交渉を行いを調印した
 *燃料や食料を提供、下田・函館港の開港と領事の駐在が条件
 ☆ハリスは、アメリカの手で開国させることが日本人の幸福になると信じていた
 *日本側は、外国奉行岩瀬忠震が交渉の責任者
 *岩瀬は、頭脳優秀て相手のいいなりになるほどバカではなかった
 *岩瀬は、事前にもっと外国の制度を勉強するべきでした
 *岩瀬は、ハリスに教えを請いながら交渉した
 *結果として、岩瀬でも不利な条項を排除するのは無理でした
 ☆治外法権を呑まされ、関税自主権が失われた
 ☆条約は発効し他のヨーロッパ各国とも同様の内容で条約を結びました
幕府は、桜田門外の変のあと水戸藩も彦根藩も取りっぶす意向だった
 ☆結果的には、御三家と譜代筆頭をつぶす事が出来なかった
 *井伊大老は病死したということにしたとの事で彦根藩も残った
 ☆幕府は、朝廷との融和のために、皇女和官の将軍家茂のもとへの降嫁を求めた
 ☆いい加減さに怒ったのが、薩摩の国父・島津久光(藩主が実父)
 *死んだ兄の斉彬は、江戸生まれで体制内の優等生で開明派
 *久光は側室の子で、鹿児島育ちでインテリで国粋主義者
 ☆無位無冠の久光が亡兄の志を継ぐと称して大兵力とともに上洛
 *江戸へ下向し「文久2年の政変」を起こした
 *結果、将軍は約300年ぶりに上洛した
 *将軍は、孝明天皇の上賀茂神社への参詣に随行させられる
 *公武の上下関係を天下にさらされ、孝明天皇は攘夷が実現できるとご機嫌
 ☆幕府ではそんな気はありません
幕府は各藩に実行には移さない前提で攘夷決行を命令する
 ☆公家たちは、若手中心の攘夷派と、現実派に分かれた
 ☆薩英戦争は、イギリス人を薩摩藩士が殺したので報復戦争だが薩摩は善戦した
 ☆長州は、本当に関門海峡を通る外国船に砲撃した
 *長州は、下関にイギリスなど四国艦隊が来襲し攻撃を受けます
 ☆長州は、朝廷への復帰と会津の排除を求めて軍事行動に出る
 *「禁門の変」長州軍は打ち払われ、久坂玄瑞らは戦死
 ☆イギリスなどとの和平交渉では、高杉晋作と伊藤博文が大活躍
 *幕府の命令で攘夷を実行したのだから賠償責任は幕府にあると認めさせた
 *幕府のいい加減な態度が、国際法的にも通用しないことが公認された
 ☆怒った幕府は長州征伐を命令
 *遠征軍を実質的に仕切った薩摩の西郷隆盛は、緩やかな条件で和平し撤兵
 ☆長州では高杉晋作や木戸孝允が政権を掌握する
 *幕府は第2次遠征を計画し将軍家茂みずから出陣
 *この戦いに先立ち薩長盟約が成立
 *奇兵隊の活躍や、領民の協力もあって圧倒的な勝利を収める
 ☆敗戦の色が濃くなる中で、家茂は大坂城で病死、慶喜が新将軍になる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国家の正史』








黒船来航での幕府の対応(ネットより画像引用)

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