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平成の虚無僧一路の日記

祇王と仏御前と一休 

2018年09月08日 外部ブログ記事
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一休は25歳の時、琵琶法師が語る「平家物語」の一節『祇王と仏御前』を聞いて、悟りを開いた。「平清盛の寵愛を受けていた祇王は、年若い仏御前の出現で、清盛の寵を失い捨てられる。そして山里に庵を結び、毎日念仏を唱えて暮らしていると、そこへ仏御前が訪ねてくる。仏御前は、明日はわが身と悟り、祇王に詫びを入れて、祇王と共に仏に仕える身となるのだった。京都の祇王寺には 祇王と妹と母、そして仏御前の4人の像が祀られている。さて、この話のどこに一休は涙し、悟ったのだろうか。自分の母も帝から捨てられ、都を追われた身。祇王に母の姿を重ねて泣いたのだろうか。どうももっと深い意味がありそうだ。そもそも、祇王のライバルの名がなぜ「仏」なのか。そこに注目してみると、この「平家物語」の主役は祇王ではなく、若い仏御前なのだ。「娑婆の栄華は夢の夢」と悟って訪ねてきた仏御前に祇王は「自分は尼になって念仏を唱えてはいても、世を恨み、身の不幸を嘆いていては極楽往生できなかった。あなたは17歳の若さで、恨みも嘆きもなく、この世の穢土を厭い、浄土を願って仏門にはいる覚悟を決めたとは、すごいこと」と誉め讃えるのだ。ライバルへの嫉妬や恨み心を引きずっている祇王にとって、すべてを捨ててきた「仏御前」の方が格が上となっているのだ。だから「仏御前」という名を冠しているのである。「平家物語」の前段で語られるこの「祇王と仏御前」の話は、「平家物語」を貫く「諸行無常、盛者必衰」のエッセンスだったのだ。さて、一休は「祇王と仏」の話から何を悟ったのか。この時、一休は師から「洞山三頓棒」の公案を与えられていた。まさに「人はどこから来てどこへ行くのか」という問いだ。父が天皇、母は楠木の血筋ゆえに都を追われたという自分の出自。そして自分の将来に一休は悩み苦しんでいた。20歳の時には瀬田川に身を投げたこともあった。そんな自分の出生にこだわる思いを断ち切ったのだ。

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