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平成の虚無僧一路の日記

歌舞伎の中の虚無僧 

2018年08月28日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



『仮名手本忠臣蔵・九段目山科閑居の場』では、大星由良之助の山科の閑居に 虚無僧が現れる。妻の戸無瀬、娘の小浪を追ってやってきた加古川本蔵の忍びの姿だ。そして幕切れ、由良之助が本蔵の着ていた虚無僧の衣裳で旅立っていくのも、これから仇を討ちに行こうとする人の装いとして、虚無僧はふさわしいものだったことを意味している。この『仮名手本忠臣蔵』が、人形浄瑠璃として初演されたのは 寛延元年(1748)、歌舞伎は翌年(1749年)のこと。天明6年(1786)に人形浄瑠璃で初演された『彦山権現誓助剣(ひこさんごんげん ちかいのすけだち)』では、「女虚無僧」が登場する。 男に変装するには、虚無僧は都合のよいものだったか。この役者絵として「女虚無僧」を描いた浮世絵が 結構 出回り、「女虚無僧」を主人公にした話もいくつか作られたが、実際に「女虚無僧」が居たのかは不明である。芝居や小説の中だけの「妄想」だったか。そして「歌舞伎十八番」の『助六』。黒の着流し、高下駄、腰に差した尺八一管。『助六』が登場するとき「ツレ〜」と尺八が鳴る。これも「カタキ」をねらう「虚無僧」を連想させる扮装なのだ。正徳5年(1715年)、二代目市川團十郎は、中村座で『坂東一 寿 曾我(ばんどういちことぶきそが)』で、曾我五郎を演じたが、そのなかで"虚無僧"に扮した場面があり、これが大当たりした。翌年、中村座の『式例 寿 曾我(しきれいことぶき そが)』で、「助六は実は 曾我五郎」という設定がうまれた。いずれも、江戸時代の半ば、1700年代が 虚無僧の全盛期だったのだ。

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