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平成の虚無僧一路の日記

父の終戦 

2018年08月27日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



私の父「牧原五郎」は、昭和16年春、慶応大学を卒業して
東京電力に入社。 勤務わずか4ヶ月で徴兵。8月に故郷の
会津若松連隊に入隊し、12月に支那へ。満州から中支、南支まで、
ひたすら行軍。 「徐州 徐州と 軍馬は なびく〜」の歌の通り。
?
父は「主計少尉」だったので、食料や衣類の手配が職務だから
直接戦闘に加わることはなかったが、何度も敵の襲撃を
受けて、死に目に遭っている。多くの部下、戦友を失ったが、
「自分は、一人も人を殺すことはなかった。そのおかげで、
無事 帰還できたのでは」という。
昭和21年の5月に引き揚げてくるまで、4年と半年、
戦争という未曾有の世界の中で 戦ってきた。
その思いを東電を定年退職してから 『従軍記』 として
ノート2冊に書き残していた。 「終戦」の項は
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新寧を出てから数日後、昨日までは日に何度となく
ブンブン襲ってきていた敵機が、今日は朝から全然
姿を見せない。「おかしいなァ。変だァ」と思った。
そのうち「広島に 今までにない ものすごい爆弾が
落とされたそうだ」「日本は降伏したらしい」との口コミが
流れてきた。噂は通信隊から出たようだった。
半信半疑でいたら「将校集合!」の指令があり、
大隊長のもとに全員集まった。大隊長から 「只今、
軍旗を奉焼し奉れ」との命令があったと発表された。
これで降伏は決定的。噂は本当だったと思った。
涙がとめどなく流れ、田んぼの中に入って泣いた。
ショックが収まると、今度は、「遺骨になってでなければ
帰れないと思っていた内地に、これで生きて還れる」と、
うれしさがこみ上げてきた。
しかし、一つの不安が沸いた。徹底抗戦に凝り固まっている
連中が「我々は降伏を認めない。最後まで戦いを続けよう」
と言い出しはしまいか、と心配になった。
それは杞憂だった。皆 案外素直だった。
?
それからは、我々は全く意気消沈。敗軍の将兵はただ黙々と
武漢まで歩き続けた。
漸く武昌に到達し宿営していた時、「貴部隊は 湘桂作戦の時、
多数の良民を連行して行ったが、その者たちをその後どうしたか
報告せよ」と、支那軍から言ってきた。あわや「戦犯」かと思った。
たしかに、物資の輸送のための要員として、多数の良民を連行
した。然し、彼らは途中でポロポロ逃亡した。後まで残っていた者も
「湖南省から先は絶対に行きたくない」と言うので、衝陽攻略戦が
終わった頃、皆解散した。もちろん、それまでの賃金は払ってやった。
その旨、回答したら、その後 ?支那軍からは何も言ってこなかった。
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この後、九江近くの部落で 10ヶ月もの間、抑留生活にはいる。
当初は村人たちも穏やかで、食料調達に協力してくれたりしていたが、
やがて、新四軍(共産軍)が入り込んできて、日本兵がさらわれたり、
掠奪しに襲撃してくるようになった。軍刀、拳銃は所持していたが、
抵抗することはできず、敗戦の悲哀をしみじみ感じた。
昭和21年5月20日、やっと「乗船命令」が出て、九江から揚子江を
くだり、南京に上陸。そこから貨車に詰め込まれて、上海へ。
途中、関門があって、貢物を要求され、また列車が停車するたびに
支那人が掠奪しに襲ってきた。
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その後、上海から引き揚げ船で 日本に帰還。 満州でソ連に抑留された
人たちからみれば、比較的順当な帰還だった。
しかし、その最後に、佐世保で船が座礁し、転覆。海に投げ出される。
「日本まで、無事帰ってきたのに、ここで死ぬのか」と。
その時、アメリカ兵のボートに助けられ、「つい先日まで、憎き
アメ公 と思っていたアメリカ兵に助けられるとは」と
?
感慨を述べて父の『従軍記』は終わっています。
?

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