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平成の虚無僧一路の日記

「武田 惣角」とは 

2018年08月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「武田 惣角」について、Wiki-pediaに載っていた。安政6年(1859) 生まれで、昭和18年(1943年)青森で亡くなっている。84歳。武術家で宮相撲の力士でもあった会津藩士・武田惣吉の次男として、福島県河沼郡会津坂下町で生まれた。幼少か ら相撲、柔術、剣術(小野派一刀流、鏡新明智流)、槍術(宝蔵院流)などを学んだ。父「武田惣吉」は 会津藩士であり、宮相撲の力士であった。四股名は白糸。剣術、槍術、棒術、柔術の達人でもあり、戊辰戦争には 250名を預かる力士隊の隊長として参加している。なななんと。私の先祖「牧原奇平」は、戊辰戦争時、62歳だったが、西軍が母成峠を越えて猪苗代に迫るの急報に、僧侶や力士を引きつれて戸の口原に向かった。会津藩兵は 越後や日光方面に出払っていて、城下には、老人子供しか残っていなかったのだ。この時、白虎隊も共に出陣している。そして防戦空しく、牧原奇平は強清水で自刃。白虎隊は飯盛山まで退いて自刃した。牧原奇平と武田惣吉は、この時共に戦っていたのだ。「惣吉」の子「惣角」は、この時まだ9歳。明治10年 西南戦争の時、「武田惣角」19歳。「西郷隆盛」軍に参加しようとして、九州に向かったが、検問厳しく、西郷軍に合流 叶わず、西南戦争後は九州を皮切りに各地で武者修行したという。会津藩家老「西郷頼母」も薩摩の「西郷隆盛」と親交があったらしく、「西郷隆盛」との関係を疑われている。作家「司馬遼太郎」や「中村彰彦」氏によって、「西南戦争では、旧会津藩士が大挙 警察隊に応募し、“戊辰の復讐”と、西郷隆盛軍に向かっていった」かのごとく書きたてられているが、会津人でも「西郷隆盛」を慕う人はいたのだ。意外な事実だ。「武田惣角」は、明治21年(1888年)会津坂下町に戻り、佐藤忠孝の妹と結婚し、佐藤忠孝の妹と結婚し、長男と長女をもうけた。明治31年(1898年)、霊山神社の宮司をしていた元会津藩家老「西郷頼母」より「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」と諭され、剣術の修行を止めて、大東流合気柔術の修行をしたという。その後、惣角は全国行脚して大東流合気柔術の技法を教授し、数多くの門弟を育てた。大正元年(1912年)頃、惣角は北海道で再婚し、以後、北海道を本拠地とする。そして、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)青森県で客死した。享年84。「武田惣角」を扱った作品津本陽 『鬼の冠』(新潮文庫)今野敏 『惣角流浪』(集英社文庫)今野敏 『山嵐』(集英社文庫)池月映 『会津の武田惣角 ヤマト流合気柔術三代記』(本の森)安彦良和 『王道の狗』松田隆智 『拳児』夢枕獏 『東天の獅子』(双葉社)

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