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平成の虚無僧一路の日記

金戒光明寺 

2018年08月24日 外部ブログ記事
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もう10数年前のこと。京都駅でタクシーに乗り、「黒谷へ」と告げたら、「お客さん“通”ですね。会津藩関係の方ですか?」と聞かれた。そうなのだ。NHKで香取慎吾の『新撰組』をやるまでは、「黒谷の金戒光明寺」は観光地からはずれていた。京都御所から丸太町通りを東へ、平安神宮の北側にある大きな寺院だ。幕末、会津藩が京都守護職を引き受け、ここが藩士1,000名の駐留地となった。蛤御門の変、そして鳥羽伏見の戦死者352柱の墓がある。私としては「黒谷の本陣」としてしか興味が無かったのだが、ここは法然上人が初めて草庵を結び、念仏行を広めた所だった。ところが、会津藩士は藩祖保科政之以来、徳川家康が東照宮に神として祀られたことに倣って、全員神道なのだ。私の先祖の墓も「牧原宗仲彦神霊」と刻まれている。というわけで、浄土宗の寺地内にはあっても、ここだけ別地なのだ。しかし、光明寺で管理していただくために、なにがしかの「供養料」を納めている。その出資者の銘板に私の父や叔父の名前もあった。そしてまた、塔頭のひとつに、近世箏曲の始祖八橋検校の墓所「八橋寺」がある。京都銘菓の「八つ橋」は、橋ではなく「琴」をイメージしたものとか。近くに修験道(山伏)の聖護院もあるから「聖護院八つ橋」となったそうな。さらに、熊谷次郎直実、春日の局、山中鹿之助、山崎闇斎の墓もここにあると知った。山崎闇斎も会津藩の御用儒学者だった。

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