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雑感日記

昭和53年(1978)45歳 カワサキ二輪事業転換期、問題山積 

2011年05月25日 外部ブログ記事
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★ 昭和53年(1978年)はカワサキの二輪事業にとってまさしく転換期だったのである。
一番の問題がずっと事業を支えてきたアメリカが転機を迎えたことである。
二輪市場もハーレーからの日本4社に対するダンピング訴訟があって、各メーカーともその対策に追われた。
カワサキの二輪ももう一つ売れ行きは悪かったし、なによりも10年続いた浜脇―マセック体制が終わり、山田ー高橋(宏)体制となったのである。山田さんは発動機やジェットスキー、スノーモビルなどの開発担当の技術者で、二輪の営業経験がなかったので、何かとぎくしゃくしたのである。
発動機事業本部の企画室から堀川運平さんが本社に戻られて、新たに山本副本部長、酒井企画室長と川重造船部門からトップが来られたりした。
4月には単車事業部がスタートし、高橋鉄郎さんが事業部長になられて、私もその管理部を担当することになったのである。企画を飛び出して、市場開発プロジェクト室で、東南アジアを中心に、新事業を展開してきたが、タイなどとの合弁事業もスタートし実務に入って行ったのである。
国内などでの営業経験などは非常に役に立ったのだが、CKD事業の難しさは『何を造るか?』から始まるのである。部品や生産のことが解っていないと、営業のように適当にでは通用しないのである。資材出身の石井さんや大竹君が現場を担当してくれて、1年ちょっとでまた管理部門に逆戻りとなったのである。
管理部門は、古谷、田崎、野田、坪井というメンバーで、高橋鉄郎さんの親衛隊のようなメンバーだと言われたのである。部長はいなかったが、それぞれ役者ばかりの4人の課長体制となったのだが、年次が一番旧かったので纏め役をやらされた。というよりアタマをさげねばならない面倒な本社担当などを上手にやらされたみたいなものである。
 
★この年の最大の問題は、『アメリカのダンピング問題』であった。 これは初めて降って湧いたような問題で、誰も経験などなかったのである。
それにこれは、国内の価格や、流通経費が現実に問題になる国内問題でもあったのである。
最初は田崎さんが担当した。
アメリカの経費率以上はアメリカは認めないのだが、日本の流通段階は問屋制度などからスタートした独特の多段階方式だし、特にカワサキは国内販社を持っていて流通経費が多大なのである。粗っぽく言えば、一つ余計な組織があってそれを何とかしなければならないのである。
当時のカワ販本社は、川重で言っても役員格や理事といった大物がいっぱいいて、その人たちは元私の上司だったので、『古谷にやらすのは可哀そうだ』と、最初からはずしてくれていたのである。
大筋を田崎さんが描いて、そのあとアメリカに行く前には高橋宏さん、それから野田君、6月に本社常務会を通してからは、発動機事業本部の企画に移って坂口さんと、
担当も次々に代わって9月ごろまで、本社スタッフも入って検討したのだが、当時の単車事業本部に対する本社の信用もなくて『モメにモメてヤマに上ってしまった』のである。
 
★9月になって、突然塚本本部長に呼ばれて、『カワ販問題を纏めるように』との直接指示を頂いたのである。
突然のことだったが、古巣のよく事情の解ったことだし、やはり国内にいた前田祐作君とのコンビで、検討を始めたのである。
こんな書類は、当時の人でも殆ど見たことがないと思うが、当時の財務本部の実力者児玉部長が纏められた所謂『児玉メモ』である。
なぜ私の手元に入手出来たのか忘れてしまったが、当時の本社の本件に関する本音の書いてある『丸秘メモ』なのである。
そこに貼られた私自身のメモにもあるように、この『児玉メモ』の分析から、スタートしたのである。
 
 
このメモの組織図にあるのが、6月の常務会も通った国内市場の改組案である。
この案では、国内販社のカワ販が消滅してしまっているのである。
 
★現在のKMJ、カワサキモータースジャパンは、国内販社として独自の採用も続けてきていたし、生い立ちはメイハツ、メグロ、各地域販社などいろいろと複雑なのだが、
その会社が無くなってしまうのでは、400人もいる従業員の故郷がなくなってしまうようなものである。
これは何としても残して『復活させることがMUST』として絵を描き直したのである。
『児玉メモ』の指摘は非常に鋭いモノであったので、その指摘事項に対しては可能な限り対応して纏めた案を、10月初めに発動機事業本部内の了解をとり、10月17日に財務本部の役員で本社に戻られた堀川運平さんに、非公式に説明に上がったのである。
説明を聞かれた後、堀川さんに『古谷君が1ヶ月考えた案なら、私は乗りましょう』といって頂いて、『これで通った』と思った。
翌日の10月18日が財務本部、10月20日大西常務、とそのあと今井副社長、今井副社長からは『6月の常務会の案とは違うが、川重の常務会を何と心得ているのか』と言われたが、
『現実に従業員の故郷もないような案では』と頑張って、堀川さんも応援して頂いて、この案が了承され、10月24日の常務会で正式承認されたのである。
 
★ただ、この案はカワ販を残しはしたが、本社人員10人ほどの小規模なもので、私自身は起案はしたが人事では非常勤の役員で名前が載っていただけであった。
塚本本部長からは川重管理が本務で、国内についてもヨコから面倒をみるようにとは言われていたのである。
最終人事案でも高橋鉄郎さんが大西常務に説明に行かれた時の書類には、私は非常勤の取締役で名前が載っていただけなのに、明石に戻ってこられた時は、常務取締役に変更されていたのである。持っていった案では、非常勤ばかりの役員で、大西常務から『ホントは誰がやるのか?』と質問されて、『古谷です』と高橋さんが応えられたら『それなら常務にしとけ』と言われたようである。
ただ、この時期のカワ販は累損もある赤字会社だったので、私の給与は川重負担の全く変則な『常務取締役』出川重籍のまま、しうっ公にはなっていなかったのである。
このときのカワサキオートバイ販売の社長は塚本本部長、副社長が高橋鉄郎事業部長、そして常務を、当時川重課長の職位であったが私が務めることになってしまったのである。
この年の9月からの数カ月は、ある意味サラリーマン生活で、一番精魂込めて臨んだ数か月であったと思う。
川重の常務会で承認されていた案件をひっくり返して、財務本部の部長さん以下スタッフを説得できたのは、堀川さんが応援頂いたこともあるが、心底『これしかない』と思って造り上げた案であったからだと思う。
 
★この年の日記帳も1日おきに英文で書いている。
喋るのはともかく、英語とも何とか慣れてきた1年であった。
内閣は福田さんから大平さんに代わっている。
ホントにこの当時は、日記を見ても会社のことばかりである。
家のことはと言えば息子は中学3年で、ずっとサッカー漬けである。
ちょうど滝川二高のサッカー部が出来た年で中学の先輩が入部していた。しきりに勧誘されたりして、試合のメンバーに入れられたりしているが、今のような滝二ではなかったのであまり興味はなかったようである。
緑が丘中学はこの年、春も秋も兵庫県で優勝している。当時のサッカーレベルとしては結構強かったのかもしれない。
 
 
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