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平成の虚無僧一路の日記

広島原爆投下の11日前 

2018年07月27日 外部ブログ記事
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■7月26日の酒宴原爆投下の11日前、1945年7月26日の夜、広島の川に面した旅館で酒宴があった。集まったのは「畑 俊六 司令官」、「高野源進 広島県知事」、第2総軍「真田穣一郎」参謀副長、そして「小日山直登 鉄道大臣」と私の叔父で小日山の秘書官「牧原源一郎」。それに中国総監部総監の「大塚惟維」の6人。(「真田を除く5人」という記録もある)「畑 俊六」「高野源進」「小日山」そして「牧原」は共に“会津人”であった。この酒宴は、「小日山」大臣が九州地方視察の帰途、同郷で旧知の畑と飲みたいとの依頼により、高野が設定した。7月26日といえば、本州各地で激しい米軍空襲があった時期であり、灯火管制が敷かれ、空襲警報が鳴り響いていた時期である。呉大空襲の2日後でもある。市民が不思議がるほど 空襲のない広島とはいえ、西日本の軍中枢や、中国地方の行政を統括するトップが呑気に盃を交わしていたことを知ると驚いてしまうが、その席で 畑は「まるで会津会のようだ」と すこぶるご機嫌だった。この酒宴については、いくつか記録がある。秘書官「牧原源一郎」の『小日山直登をしのぶ』(1982年刊)には、「その夜は 折柄の明月を賞しながら 盃を挙げて 互いの労をねぎらいあった」とあり、「畑」の「第二総軍終戦記」には「7月頃より鈴木内閣の一部には 既に講和に関する議が起りつつありたるものか、当時の運輸大臣小日山直登が視察に名を借りて広島に余を訪ね、講和に関する意見を余に求めたることを記憶す」とある。(「第二総軍終戦記」の初出は1964年)。また、1950年に「畑」が書いた『原爆を経験す』にも「爆撃の前々夜など知事(高野源進という会津人なり)、参謀長、大塚氏など会食したる程なりしが、・・・」とある。一方、高野も畑を追悼する文の中で、「原爆投下の2、3日前」としている。宴会は本当に「2、3日前」だったのか。念のため「明月」のことを調べたら、8月6日は「新月の2日前」だった。26日は 新月の2週間前で「明月」だったことだろう。小日山の『まほろしの影』にも、「26日に広島に一泊した」と 記されている。「畑」と「高野」が口をそろえて、「前々日」とか「2、3日前」と書いたのは、理由があったのか。原爆のショックがあったとはいえ、戦中・戦後、そして巣鴨獄中にあっても、詳細な日記を書き続けた畑が間違うことは考えられない。

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