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平成の虚無僧一路の日記

飢餓海峡と洞爺丸事故 

2018年06月30日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



水上勉『飢餓海峡』
「洞爺丸沈没事件」と「岩内大火」を題材に書かれた小説。
洞爺丸沈没事件から8年後、まだ記憶が生々しい昭和37(1962)年1月から週刊朝日に連載された。そして、昭和40(1965)年に 映画化された。冒頭、洞爺丸の沈没で、無数の遺体が七重浜に打ち上げられるシーンが、モノクロの暗い映像で映し出される。あれは 当時のニュースの実写だったのだろうか。私が「洞爺丸事件」を記憶しているのは、この『飢餓海峡』の映像によるのかもしれない。質店を襲撃し金を強奪した犯人「樽見京一郎」役が「三國連太郎」。それを執拗に追う刑事役が「伴淳」。絶妙のコンビだ。「別人に成り変って、事業で成功した犯人を追う刑事」という設定は、松本清張の『砂の器』と同じだ。(『砂の器』は、1960年5月から『読売新聞』に連載)「洞爺丸事故」の死亡者の数は「1153人、1171人、1175人」など諸説ある。「氏名不明者」や「遺体の見つからない行方不明者」がいたということか。当時、救難に当たった自衛官の話が興味深い。「洞爺丸が沈没して多数の遺体が七重浜に流れ着くと、 身元のよくわからない若い女性の遺体にすがりつき、 自分は夫であると言って遺体を引き取って、国鉄からの 見舞金を搾取しようとする男も現れた。 そういうのは1人や2人にとどまらなかった。 殺した遺体を 紛れ込ませたり、そこで自殺して、 補償金を得ようとすることも、あの混乱状況では、 なんでもできただろう」と。実際、「遺書」を持った遺体もあったが、事故死として補償金は支払われた。3等客船の客には、青森と函館を往復する「かつぎや=ヤミ屋」が多かった。戦後の人心荒廃した せちがらい世だった。まさに『飢餓海峡』は、そんな“闇の時代”に生まれた作品だったのだ。

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