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東女卒業生有志の九段下周辺戦跡ツアー(しょうけい館編) 

2018年06月28日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



さる5月に「東京女子大卒業生有志の靖国神社ツアーガイド」と他3回をエントリーした。
「東京女子大卒業生有志の靖国神社ツアーガイド風景画像」
「東京女子大卒業生有志の靖国神社ツアーガイド風景画像《その二》」
「東東京女子大卒業生有志の靖国神社ツアーの感想文」

当日は長時間になったので、しょうけい館など九段下周辺の戦跡は後日とした。
6月22日にしょうけい館、昭和館、九段会館(工事中)、愛国婦人会発祥之碑、大隈重信候雉子橋邸跡をご案内した。

しょうけい館(戦傷病者史料館)

二階常設展示室
《戦争とその時代》
「軍人と徴兵制」
本人と母親宛の表彰状が二枚展示されている。
「徴兵検査の結果、体格、学力ともに優秀であった者への表彰状。母親に対しても、立派な子供を育てたことに対して表彰している。」(しょうけい館 来て、見て、学ぶガイドブックより)

徴兵検査は、身長、体重、視力など体力検査の後、軍医の前で猿股・褌を外して陰茎をしごかれ、肛門を突き出し性病と痔の有無を調べる検査がある。
軍隊には人権などくそ食らえという鉄則を叩き込まれるのだ。

「出征」
本籍地の役場から兵事係が召集令状(いわゆる赤紙)を配達し、受領印をもらう。
管理人の亡父は、1936(昭和11)年に金沢市から上京し、東京市淀橋区十二社(現・新宿区西新宿)で所帯をもち、翌年3月に管理人が生まれた。9月に陸軍第九師団輜重兵として召集された時、赤紙は金沢市高尾町にある本家に届いたと思われるので、電話かハガキで知らされたと考える。
「一銭五厘」についての解説がある。ハガキは1937年(昭和12)に2銭に値上がりしたので、値上がりした2銭のハガキが届いたかも・・・。
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新人物往来社刊「日本陸海軍事典」の「一銭五厘」より
『動員召集は役場の兵事係員が、被召集の本人や家族に充員召集令状(赤紙)を手渡し受領印をもらうことで行われた。本人が不在の場合、令状を受け取った家族が転居先の本人にハガキ連絡をすることもあり、当時のハガキの値段が一銭五厘であったため召集令状の代名詞ともなった。徴兵制で兵隊が容易に動員できたことから「お前らは一銭五厘で簡単に集められるが、軍馬や軍用犬は、そうはいかない」など自嘲的に使われることもあった。ハガキは一九三七年(昭和一二)に二銭に値上がりしたので、それ以前に作られた話であろう。』
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《郵便料金の推移》
 
《戦地での受傷病と治療》

「受傷」
「戦争は兵士達の身体や心をさまざまな形で傷つけました。戦場では極度の緊張により神経がする減ります。銃弾や砲弾、爆撃により失明したり、腕や足をなくすなど大変なけがをする兵士が数多く出ました。」(同館ガイドブックより)
「受傷の瞬間」
「ここには兵士が戦争でけがをした時に身につけていたものを展示しています。」と軍帽、メガネ、煙草入れ、軍長靴がガラスケーに展示されている。

同館の展示設計と制作は株式会社乃村工藝社が請け負った。天井からのライトが小さな銃弾の穴を突き抜け、下の説明パネルに小さな光が照らされる生と死の間。死を免れても傷痍軍人として労苦の人生を想像させる秀逸作品である。

「また、食糧の不足や、衛生状態が悪いため、栄養失調などの病気にかかったり、結核やマラリヤ、コレラやチフスなどその土地特有の伝染病にかかった兵士も続出しました。さらに、戦争が長引き、戦争の状況が悪化するにしたがい、陸上でも海上でも兵士の中でけが人や病人が増え続けました。」(同館ガイドブックより)

「陸軍の地域別戦病発生状況」の円グラフである。「精神病、その他の神経症」が中国、満州、南方で8〜8.9%もあることに注目したい。大日本帝国軍人として恥ずかしい限りであり、この数字を隠したいところではあるが、現地の軍医は一切数字は誤魔化さずに上申したと、学芸員木村さんが話してくれた。
学芸課長の木龍さんは、戦死者と戦傷病者の比率は、日中戦争以前と制海権、制空権を奪われた太平洋戦争末期では大きく変り、戦死者の比率が圧倒的に多くなった。また、南方戦線で餓死した兵士は、戦死・戦病死であると上官は報告したようだと話してくれた。

「野戦病院ジオラマ」
戦争末期の南方の戦場の壕の中に作られた野戦病院での手術の様子を再現。漫画家故水木しげる氏は南方戦線で片腕を失ったが、このジオラマの作成に助言をされた。
砲弾、銃弾の音、傷を負った兵士の声。そしてふたりの衛生兵が上から押さえつけ、麻酔なしで歯を食いしばり、軍医の手術を受けている兵士の呻き声も一切無い無音のジオラマだが、センサーに手をかざすと静かに流れてくる女性のナレーション・・・。
「特に東南アジアなどの南方では、戦況が悪化してからは、野戦病院に運び込まれる戦傷病者は植えるばかりでした。治療をする軍医や、戦傷病者を運んだり手術などで軍医を助ける衛生兵も足りません。医薬品や手術道具などの日本からの補給が途絶え、やむなく麻酔なしで腕や足などの切断手術や銃弾などの摘出手術が行われました。清潔な環境も整えられず、患者に充分な食事や水さえも与えることができませんでした。」(同館ガイドブックより)


《本国への搬送・帰還後の労苦》

「戦時下の療養生活」
「病院船で日本国内の陸海軍病院に送られてきた重症の戦傷病者は、けがの程度や病気の種類に応じた専門の病院に送られました。厳しい身体の機能回復訓練などが行われました。」(同館ガイドブックより)

病院船氷川丸については「日本郵船歴史博物館」が詳しい。

「箱根療養所」
「昭和15(1940)年、脊髄を損傷したため下半身麻癌の状態となり車椅子を使わなければならなくなるほどの重症のけがをおった傷兵(傷病軍人)のための唯一の収容施設として傷病軍人箱根療養所が作られました。この療養所に入った多くの傷兵は、戦中・戦後の長い期間、療養所の中で療養を続け、家族とともに生活をしています。」(同館ガイドブックより)
この有名な写真はオープン当時に絵葉書として無料で配布していた。
療養していた軍人は全て鬼籍に入られ、現在は交通事故や労働災害の脊椎損傷患者が療養してる。


≪戦後の労苦≫
「終戦/占領そして戦後復興」
「昭和20(1945)年8月15日、戦争が終わりました。終戦により、連合国軍による占領政策が昭和27(1952)年まで実施されました。その占領政策の一つとして、昭和21(1946)年、それまで国から支給されていた軍人に対する年金(軍人恩給)が、重症の戦傷病者を除いて停止されました。
終戦直後の戦傷病者は、傷病をおった身であるために、一般の人に比べ、就職難、食糧難など、当時の社会状況 の影響をより大きく受けることになりました。しかしこの軍人恩給の停止により、戦傷病者がますます厳しい状況に置かれることになりました。」(同館ガイドブックより)
陸軍病院で着ていた病院衣がある。

ビキニ環礁で被爆した第五福竜丸の乗組員久保山愛吉さんらは国立東京第一病院に入院したが、陸軍病院の病院衣を着ていた。

国立国際医療研究センター資料室の写真から

「経済成長とくらしの変化」
「昭和27(1952)年、サンフランシスコ平和条約が発効し日本は独立国となりました。こうした中で、同じ年に、国が戦傷病者の生活や医療の面で経済的な支えをすること(援護)を目的とした法律である戦傷病者戦没者遺族等援護法が制定され、翌年の昭和28(1953)年には停止されていた軍人恩給が復活されるなど、戦傷病者に対する国の援護施策がようやく進められました。その後、社会が安定し経済成長の時代を迎えました机戦傷病者にとっては、まだ就職や生活の不安が絶えない時代でした。」(同館ガイドブックより)
「軍人恩給が復活されるなど、戦傷病者に対する国の援護施策がようやく進められました。」と記述されているが、日本軍人として戦傷病者となった台湾籍、韓国・朝鮮籍の兵士は、8月15日以降外国人だからと一切の援護と補償がないのである。

「妻の語る労苦」のファイルの中に、戦地で顔面を負傷した兵士が陸軍軍医学校整形外科で手術を受けて成功した事例がある。
俳優の長谷川一夫が松竹から東宝に移籍したとき、暴漢にカミソリで左の頬を切られた事件があった。長谷川一夫は陸軍軍医学校整形外科で手術を受けて成功したエピソードがある。
陸軍軍医学校跡地から「人骨」が発見された時に、軍医学校と陸軍病院の日赤看護婦石井十世さん(故人)からこのエピソードは事実であると聞かされた。



一階常設展示室の図書閲覧室で下記の文献を紹介している。
*「馬事提要」作家水上勉が陸軍第九師団輜重兵の時、丸暗記させられた。馬の性は牡・牝・?(せん)で、?馬は去勢された牡である。
*復刻版・不二出版刊『陸軍軍医学校防疫研究報告第2部、陸軍軍医学校防疫研究室』全8冊(石井四郎や内藤良作のマル秘研究論文がある。8巻に常石敬一氏の731部隊研究解説がある)
*森鴎外全集18〜36巻(陸軍軍医監森林太郎時代の論文など)
*千田夏光著「甕の中の兵隊」(手と足を失った兵士が陸軍東京第一病院に入院してる小説)
*富田晃弘著「兵隊画集」戦地の慰安所の中を描いた。(ブログ記事「突撃一番を靖国神社骨董市で」を参照)

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