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平成の虚無僧一路の日記

湯河原に 2.26事件の史跡 

2018年06月26日 外部ブログ記事
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千代田生命の同期会が湯河原であり、帰りに寄って見てきました。
「伊藤屋旅館別館光風荘」2.26事件の唯一の現存建物。当時、ここには元勲 牧野伸顕が静養を兼ねて
滞在していたが、襲撃を受け、牧野は女物の着物を被って裏山に逃げ、被害を免れた。
牧野伸顕明治の元勲大久保利通公の次男で後に牧野家の養子となる。明治期に外務省関係要職を歴任。大正、昭和天皇の信頼が篤かった。長女雪子は吉田茂の妻。麻生太郎内閣総理大臣は曾孫。
さて、襲撃の指揮を執った河野大尉は、負傷し病院で自決した。
襲撃に加わり、民間人でただ一人 死刑となったのが渋川善助。
渋川善助は 会津若松の海鮮問屋の長男。その実家は長らく旅館を営んでいたが、
最近は料亭となっている。私の母の実家に近いことから、何度が
訪れたことがある。
渋川問屋 憂国の間 善助が幼年期を過ごした部屋として保存されている。

?
?民間人の渋川善助が、なぜ死刑となったのかが関心がありました。
調べてみると、善助は会津中学で“神童”と呼ばれたほどの秀才で
陸軍士官学校に進み、天皇陛下の御前で講演を行うほどの逸材でした。
ところが、陸軍士官学校(39期)の本科卒業目前に、教官の腐敗と堕落を糾弾し退学となるのです。その後、明治大学法科に学び、国家主義運動にかかわり、1932年(昭和7年)に、杉田省吾、西田税、福井幸、加藤春海等とともに維新同志会を結成。当時、日本は大恐慌以来の不況に苦しみ、東北では 凶作により娘を身売りするほど困窮していた。それを解決できない政治家、また、そうした民衆の苦悩を省みず、一部財閥と軍部の首脳が癒着し、贅沢三昧の生活をしていることが善助は許せなかった。「民の苦しみは陛下のお心を悩ますこと」と、義憤から2.26事変に加わった。渋川善助は、湯河原に滞在していた前内大臣「牧野伸顕」の襲撃に加わったが、牧野伸顕は危うく難を逃れている。襲撃部隊を率いて突入した「河野寿大尉」は警護の巡査の反撃に遭って負傷し、3月6日に病院で自殺する。つまり、渋川善助は 牧野伸顕を殺害していないにもかかわらず、死刑となった。その理由が謎なのです。善助を知る人は、海鮮問屋の長男であり、食事も一品、二品旨いものが並べられたが、彼はそれらを 「使用人の誰々に」と分け与え、自分も使用人たちと同じものを食べることを望んだという。渋川屋の一室は、ここを訪れた三島由紀夫によって「憂国の間」と名づけられた。なお、妻「絹子」の甥が 俳優の「佐藤慶」。佐藤慶は、会津若松市役所の戸籍係に勤務するかたわら、地元で「新劇愛好会」を結成して演劇に打ちこんでいた。しかし会の発表会の日に無断欠勤したことで役所を免職され、東京に出て俳優を目指した。
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