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平成の虚無僧一路の日記

「袈裟御前」 

2018年06月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



遠藤盛遠と袈裟御前の話は『平家物語』には無いそうだ。異本では「遠藤盛遠」ではなく別人になっている。『平家物語』では「遠藤盛遠」は「ある事情で出家した」とあるのみ。「袈裟御前」との話は『源平盛衰記』にあるとのことだが、ネットでみた『盛衰記』には「生年十八歳にて、糸惜き(いとおしき)女に後れて髪を切て遁世しき」とあるのみだった。「異本」の方に書かれているようだが、いつ頃書かれたのかが気になる。芥川龍之助、菊池寛、吉川英治も書いているのだが、それぞれかなり脚色していて、年齢など事実とつじつまが合わないのもある。落語に『袈裟御前』というのがあるらしい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【主な登場人物】 遠藤盛遠(後の文覚上人)・袈裟御源の頼朝が鎌倉幕府を開いたのが、え〜、覚え方、習いましたやろ、「ヨイクニつくろ」、西暦4192年。(?? 正しくはイイクニつくろで1192年)その「頼朝」のお父さんといぅ方が「源義朝(よしとも)」。平治の乱で平清盛に敗れて、京を逃れ、終わりは尾張の国、野間で殺されてしまった。そして、捕らえられた頼朝は、命助けられ、伊豆へ流された。二十年間 伊豆で暮らしてたんです。伊豆で……、踊り子と遊んだり。そこへやってまいりましたのが「文覚上人」。「もんがく しょうにん」「上人」ちゅなね、お坊さんのこと言ぃまんねん。日蓮上人、親鸞上人、ベニスの商人。「文覚上人」、京都から「平家追討」の院宣を携えてきた。もひとつ、首にぶら下げてきたのが、なんと父「義朝公」のしゃれこうべ。それを、頼朝の前に差し出して、「さぞ、お父上は無念でございましたでしょ〜」と、仇討ちをそそのかす。でも、見たらお父っつぁんの頭蓋骨、なんか小(ち)っこかったらしぃ、疑問に思った頼朝「父上のにしたら ちょっと小っさいのんとちゃう?」。すると文覚上人 答えていわく「それはお父上さま“8歳”の時のものでして」。文覚さんちゅうのは口八丁、手八丁、ああいえばじょうゆう。生易しぃボンさんではございません。荒法師、修験者。京都から8日で空飛んできたというんですから。十九歳のときに出家をいたしまして、和歌山の那智山に篭(こも)ること千日。冬の寒いときは首まで滝壷につかって呪文を唱え、また夏の暑いときには素っ裸でもって 竹薮で暮らしながら呪文を唱えた。「坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた、坊主が屏風に……」。ヘビ・カエル・ムカデ・ゲジゲジ・ケムシ・ミズムシ・チャワンムシ……、夏ですからどんどん出てまいります。緊張の連続ですなぁ……、日本の夏、緊張の夏。そして頼朝を担ぎ出して平家討伐を企むといぅ坊さんですから、根性が座わっております。それもそのはず、この方は本名を「遠藤盛遠(もりとぉ)」と申しまして、北面の武士。同僚に平清盛、のちの歌の名人西行法師なんかがおったと申します。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・※ そう、40年ほど前、私は「鶴が岡八幡宮」の宝物館で、たしかに「義朝8歳の頭蓋骨」というのを見た記憶がある。※ 平清盛と盛遠は20歳離れているので、「同僚」ではない。

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