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平成の虚無僧一路の日記

普化 

2018年05月24日 外部ブログ記事
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虚無僧の歴史は古く,七百年以上前にさかのぼる。 法燈国師によって開かれた臨済宗法燈派「興国寺」(和歌山県由良町)は虚無僧の本山として名高い。
 東福寺(臨済宗)の心地覚心(1207〜1298)が,建長元年(1249)入宋,建長六年に弟子四人を連れて帰国,紀州由良に興国寺を立てた。 興国寺の中に普化庵を建て弟子を住まわせたが,この流れの中から京都白川に明暗寺が作られることになっていくのである。
 禅宗が栄えて,禅宗の中の普化宗は紀伊,伊勢,志摩を中心に末寺百四十三ヶ寺を数える関南第一禅林(箱根の関より南の




禅宗の寺の第一に数えられるという意味)と言われた。 「・・・大門から入ると二十三坊の坊舎が左右に建ち四十六坊もあった・・・」と古い文献にあり,当時全国から多くの学僧が集まり”学問の府”の偉容を誇っていたが,信長・秀吉に焼かれてこれらの堂塔はことごとく消失した。
 尺八の伝統の法は,国師から高弟・虚竹禅師(京都明暗寺開山)およびその弟子たちに受けつがれ,やがて普化宗に発展し,虚無僧により全国にひろめられた。








 天明六年(1786)の『勢州亀山藩領若松三村明細帳』には岸岡村枝郷・打越に京都明暗寺末として普済寺の記述が見られる。(若松三村とは,北若松村,南若松村,岸岡村である) また,江戸時代末の地図には,打越村(江島の隣村)に普化宗の寺があったことが描かれていて山門の前には立て札が立っていたことがわかる。






 家康が与えたと伝えられる「虚無僧掟書」には虚無僧に重要な特権が与えられている。 帯刀の許可。浪人の保護。虚無僧になれるのは武家に限る。諸国行脚の途次(とじ)で不法者を捕らえ,役人に引き渡す権限をもつ。日本国中往来自由,芝居・相撲などの木戸御免といったものである。 治安維持のための情報収集に虚無僧が一役買ったと思われるが,秘密裏に行われることなので実態は定かでない。 一方,虚無僧に対する制限も多かったようで,鈴鹿市肥田村に居を持つ服部庄右衛門(津藤堂藩大庄屋)の文書には,その立入禁止の地域を設けたりする触れ書がしばしば見える。 通常,武士は公務以外に旅行は許されず,旅籠には宿泊をさせない定めがあって,虚無僧は全国にある虚無僧寺(普済寺)をたよりながら旅をした のである。 虚無僧を統制する役所あるいは寺は,伊勢地方では桑名伝馬町に普済寺役所,岸岡村打越に普済寺があった。

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