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昭和23年冬の思い出 

2018年04月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


偽学生アルバイトの思い出


太平洋戦争にぼろ負けした後の混乱期を生き延びるのは、大変なことでした。いつもお腹を空かせていましたし。


7歳の時に死別した父親の遺産は、敗戦後の猛烈なインフレでたちまち消えてしまい、14歳で女学校をやめて、働かなければならなかったのです。
昭和20年に戦争が終わったけれど、14歳から19歳までは職が安定しませんでした。軽い肺結核もやりましたし、女学校(今の中学)2年中退では採用されないのです。

一方当時の大学生達もアルバイトの職に就くことは困難でした。学生達は各地でそれぞれ学生連盟を作って、道端でノートなどを売るのが普通の仕事で、授業にいつ出るのか不思議なくらいでした。


そこで私は学生でもないくせに学生連盟にもぐりこんで、駅前などでノートと飴玉を売りました。
折りたたみの台は連盟で借ります。商品をリュック一杯背負って、台を抱えて電車で何処かの駅に行きます。よその学生連盟とぶつからなければ、交番に断って店を出し、メガホンで叫んで売ります。(ウチにあったメガホン使ったのは私だけだったかも)
当時物凄く質の悪い再生紙でベージュにグレーを混ぜたような紙のノートが、10円から50円でした。よほど売らないと交通費も出ません。


学生連盟の事務所はとんでもなく不便な場所にありました。
新小岩から、なかなか来ないバスで20分ほど、バス通りの傍に蓮田が点在する場末の町。

そんな町の寂びれた商店街に事務所はありました。折りたたみの台だけは新小岩のタバコ屋に預けてありましたが、仕入れと清算にはいちいち事務所に行かなければなりませんでした。
(その町を十数年前に通ってみたら、道幅は5倍ぐらいに広がり、地下鉄の駅まであって、ビルが林立、昔の面影は何一つ残っていませんでした)

当時のバスは7時半ごろに終わってしまったように思います。バスが無くなると小さい都電で小松川橋の手前まで行き、橋を歩いて渡って、また都電で錦糸町に出ます。あとは国鉄で新宿乗換え渋谷に出て今度は東横線で祐天寺に帰るのです。電車はどれも本数が少なく夜まで満員でした。
長い長い小松川橋を寒い夜に歩いて渡る人はほとんどありません。真冬の川風は容赦なく吹き付けます。
それでもみんなで歌を歌ったりしゃべったりしながら歩くのがなんか楽しくて、わざと最終バスに乗り遅れたりしました。
(小松川橋は、幹線の京葉道路が荒川放水路と中川放水路をまたぐ大きな橋です。今ではすぐ脇に新小松川橋が並んでかかっています。今はそれほど交通量が多いのです。)

ノートと飴を売りに行ったのは船橋や千葉など。国鉄より京成の駅前の方がなぜか良く売れました。


ついでに闇市で買い物をすることもありました。
秋刀魚が大漁だと闇屋が小船を出して、沖で漁船からサンマを買い取り、闇市で売るのです。
漁船は港に入ると公定価格で買い取られてしまうので、沖合で闇屋の小船を待つのです。
闇のサンマは一匹10円。見つけると急いで2匹買います。冬だから夜まで腐りません。隣組単位の配給にはなかなかまわってこない貴重な蛋白源でした。塩焼きにして、残った頭と骨も焼き直して粉にし残すところなく栄養源にしました。

道路の舗装は空襲で壊れたまま、駅前だってでこぼこでした。一度、台をひっくり返して水溜りにノートをぶちまけたことがあります。もともと汚い色のノートなので少しの水濡れなら乾かして売れましたが、
汚れたものは卸値で自分が買うしかありません。そんなノートに書いた日記が今も沢山残っています。ボールペンなんて存在しませんから、壊れた万年筆をインクビンにひたしては書いたり、ガラスペンを大事に使ったり、鳥の羽の軸を斜めに切ってペンにしたり・・・ブルーブラックのインクの文字は今もちゃんと読めます。

事務所の場所が不便すぎるので連盟に通ってくる学生は12〜3人で、女の子は3人だけでした。
初めのうちは見習いについたこともありますが、収入を半分わけしては商売にならないから遠慮して、一人で商品と台を担いで船橋などの駅前で、「学生連盟のノートを買って下さい」とメガホンで叫んで売りました。学生じゃないくせに。


当時の大学生達はとても言葉が綺麗でした。男子もきちんと敬語を使って居ました。仲間内でふざけることはあっても、汚い言葉は聞きませんでしたよ。

売れない日は長居をしても駄目なので早々に引き上げます。
或る日6時頃新小岩駅まで戻ったら、一番良く売り上げる青年も『今日は駄目だった』と戻ってきました。
『夜に売れる場所があるんですが、これから行きませんか』と彼、
上野は浮浪者があふれ街娼がたむろし、やくざが仕切っている恐いところと思って、敗戦後行ったことがなかったけれど、好奇心が湧きました。
西郷さんの山から大きい階段を下りた反対側正面の歩道で、みかん売りのおじさんと並んで店を出しました。
商品を揃えると彼は『君一人のほうが売れますから』といって古本屋に立ち読みに行ってしまいました。
確かにそうでした。私の顔と体はアンバランスで、栄養失調でも頬はこけないし目はくぼまない。丸ぽちゃの童顔で身長147.5センチ、体重39キロ。17歳なのに13歳ぐらいにしか見えない。女性の魅力なんて縁がないから、酔っ払いにからかわれることもない。みかん売りのおじさんからみかんを何個も貰っちゃうし、ノートも飴も次々売れる。町の様子を見るのも面白かった。

当時パンパンガールとよばれた街娼のお姉さん達は濃い化粧でフレヤーのロングスカートの裾を寒そうに押さえている。あの頃は、親を失って弟妹を守らなければならない人は、身を売るしか手段のない時代だったから、彼女達を軽蔑する気持ちは微塵もありませんでした。

9時半近く相棒は戻ってきて『やっぱり売れましたね。さすがー』といって計算を始めました。
そのときそっと私をつついて『あれ、おかまですよ』と教えました。そこには和服姿の綺麗なお姉さんしか居ないのでびっくり!?初めて見たおかまさんがいったい何なのかまるで見当もつかないままぽかんと見ていた私でした。


相棒は計算した儲けの半分を私に渡し、『手ぶらで帰っていいですよ僕が全部清算してきますから』と二人分の売れ残り全部と、台を担いで帰って行きました。お蔭で私は手ぶらで楽に帰宅し、11時前に夕飯の雑炊を食べることができたのでした。

その後、鏡を売ることにならなかったら、私は夜毎上野で商売をしたでしょう。


しかし 学生連盟の商品では全く儲からないので、ある日仲間の東洋大生が、貿易商の知人から傷物の鏡を安く仕入れられるからと誘ってくれました。
学生連盟から抜けて、男の子二人と私の3人だけで立川まで鏡を仕入れに行きました。


鏡をリュック一杯借りて帰り、翌朝家の棚板をはずして抱えると自由が丘の駅に行きました。
宝くじ売りのおばさんに荷物を預け、遠くの交番に断ってきて、ロータリーの向かいの果物屋に『今日一日りんご箱3個貸してください』と頼んで、3箱かついで来て棚板を載せます。家で書いて来た広告の紙をぶら下げて店を出すのです。宣伝文句を3色のクレヨンで書くのは得意でした。


物のない時代で、鏡は傷が有っても良く売れました。
一番の売れ筋だった大きい鏡は少ししか仕入れられないのです。それを田舎のおばちゃんたちに値切り倒されて根こそぎさらっていかれたときはせつなかった。
それでもノート売りの3倍以上儲かりました。

ある日の午後、駅員さんがすっ飛んできました『まぶしくって事務が出来ないから鏡の向きを変えなさい』と。太陽が反射して、駅の事務室に当たっていたのです。


色々なことがあっても3日おきくらいに、清算と仕入れに行くことが出来ました。
私が一番多く売り上げていたようです。何しろ声がでかいものですから。


清算に行った帰りには東洋大生二人と渋谷で映画を見たりしました。デートには発展しませんでしたが。


次の仕事に進むまで、駅前で一人で叫ぶ日が続きました。
何処の駅前にも果物屋さんがあって、学生連盟と言えば快くりんご箱を貸してくれたものです。学生にはみんな親切でした。私は偽学生でしたけどね。


昭和23年11月から翌年1月にかけての妙に楽しかった思い出です。





駅前闇市の周辺と映画の思い出
学生じゃないのに学生連盟に通っていた昭和23年冬の思い出です。
新小岩駅南口前のヤミ市を通り抜けても、ふかし芋ぐらいしか買えなかった私ですが、下駄を一足よくよく吟味して買ったことがあります。
少しでも長持ちしそうな赤い鼻緒の下駄を選びました。当時の下駄は桐ではなく、所々に節(フシ)のある良くない素材で出来ていました。だから、歯の部分に節がないことを確認して買わないと、節は硬いので、すり減り方が違ってしまいます。滅多に買えないから、一足買うにもよくよく吟味したものです。


ズック靴は破れても買い換えられないから、家では常に下駄履きでした。ゴムを打ちつけて減らない工夫をしたり、斜めに減ることの無いよう気を配って歩いたりしました。磨り減って歯がなくなるまで履いたものです。前緒が切れると、子供だってすげ替えることが出来ましたよ。鼻緒全体が駄目になると私は自分で作りました。
当時麻の繊維が楽に手に入りました。軍隊のために増産を命じられた麻が大量に余ったのでしょう。皮をはいで叩いて干しただけの麻でした。それを両手と足と口まで使ってきつく撚り合わせて(縄をなうやり方で)丈夫な紐を作ります。余り布を縫って中に麻紐を通し綿を詰めて鼻緒の形を作ります。それをきつくすげて、はじめはきつくて履けないまま指先に突っかけて歩きます。鼻緒がすっかり伸びきると丁度良く履けるのです。近所の買い物も、道端で友達と遊ぶのも総て下駄履きでした。
新しいのを下ろすときはわくわくしました。何でも新しく手に入ったものは『宝物』 大切に大切に使った時代です。

新小岩には場末の映画館がありました。仲間にすっぽかされて仕事にならなかった日、思い切って見たかった映画を一人で見ました。
『蜂の巣の子供達』戦争孤児たちがたくましく集団生活を続ける感動物語でした。この前年からNHKで長期間放送されていたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」よりもっとワイルドな話だったように思います。


この映画を調べました。
なんと、清水宏監督が引き取った8人の戦争孤児の身内を探す目的もあって、一緒に作った映画でした。近年も上映会があった模様です。又見たいです。
https://filmarks.com/movies/7312


何年ぶりかで見た映画は強く印象に残りました。30円で見たように思うのですが確かではありません。映画館はバラックで、ドアの隙間から外の光が入っていました。椅子は只の縁台・・・背もたれもない木のベンチでした。上映中に停電がありました。毎日あることなので、真っ暗になっても誰もあわてません。ドアを開け放って待つうちにやがて電気は復旧、映画を終わりまで見られたのでみんな満足でした。

実際戦争孤児は街にあふれていました。父を戦地で失い、空襲で母や兄弟をなくして、街をさまよう子供達。繁華街に屯して食べ物をかっぱらったり、スリをしたり物乞いを続けたり。靴磨きになれれば良い方で、磨かせる靴を履いているのはヤミ成金や戦争成金。
上野などの地下道で昼間眠って夜の街を徘徊する。時々警察のトラックが寝込みを襲って強制収容するけれど、施設の待遇は悪いし、食事も少ないので『同じお腹が減るのなら、自由な地下道のほうがいい』と皆逃げ戻ってしまうのでした。それでも昭和23年末ともなれば、寒かったこともあり、上野で浮浪児を見かけることはありませんでした。


大変だったけれど、なんか活気にあふれていて、面白い時代でもありました。
当時の子供は、今の子供には到底出来ないことをやってのけるヴァイタリティーがありました。
サバイバルに強いのは我々世代かもしれません。

私はよく他人から『14才から学校へも行けなくて、よくグレませんでしたね』と言われました。
本人そんなこと思っても見なかった。プライドが高いと言うか高すぎて、”まっとう”に生きるのがごく普通のことでした。
今日の食べ物を工面するのに夢中でしたしね。


生真面目に生きられたのは、7歳までの箱入り娘体験のお陰だと思います。。
父は54歳のときに思いがけず授かった一人娘を溺愛してくれました。
私は一人では屋敷から一歩も出たことがないまま、友達もなしに入学のときを迎えたものだからもう大変でした。学校で母から離れられず暫く付き添ってもらうほど、幼稚園児より酷かったのです。
入学前にメンタルテストがあって、わかっていながら何も答えないので、男の先生から『低脳(ていのう)ですな!』と吐き捨てるように言われました。知恵遅れのことです。(昔の先生はそんな酷い言い方をしたのです。私はテイノウと言う言葉をずっと覚えていました)
知恵遅れのレッテルを貼られて入学。ところが文字の読み書きははじめから出来ていたので一年の終わりに努力賞を貰いました。努力じゃなく始めの評価が低かっただけなのに・・・

家には当時「ねえや」と呼ばれたお手伝いのみよちゃんがいました。(ネエヤとは呼ばずちゃんと名前でみよちゃんと呼んでいました)
彼女は買い物先でよそのネエヤさんたちと話すとき『ウチは奥と同じ食事をいただけるのよ』と自慢していたそうです。ウチの両親は衣食に無頓着で食事はとても質素でしたから、差別しようがなかったのかもしれませんが、何によらず差別感のない家でした。みよちゃんはお嫁に行ってからも千葉から干した貝類をよく送ってくれました。

1年生の秋に父が急死して小さい家に移ってからも、母は『下品』なことを酷く嫌いました。貧しくても上品に暮らさなければいけないと、私を教育したのです。
母は言葉遣いにやかましく、語尾を濁すことを特に嫌いました。「発音ははっきりと、口の中でものを言う人は長生きしない」と言うのが母の口癖、お蔭で朗読が得意になりました。
ですから私は猫背になったり伏目がちでいたりするのが嫌いでした。道端で物を売ってもなんら恥じる気持ちはなく、公然と顔を上げて商売をしたものです。


7歳まで箱入り娘で居られたことは、後の人生の助けになりましたし、貧しくなってからの母の教育も正しかったと思います。

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