メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

慶喜

徳川埋蔵金と小栗上野介忠順 

2018年04月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



徳川埋蔵金発と小栗上野介忠順(江戸時代末期の幕臣)

☆幕末、徳川幕府が政権としての体を保てたのは、小栗の構想力と実務力があったから
 ☆明治維新の立役者の勝海舟は、小栗のやり方に否定的
 ☆小栗の改革が失敗したのは、江戸幕府(徳川将軍家)本位だったから

小栗 忠順(ただまさ)履歴
 ☆三河小栗氏第12代当主、父方の祖父は勘定奉行を務めた
 ☆日米修好通商条約批准のため、米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国
 ☆江戸幕府の財政再建や、洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う
 ☆徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず
 ☆罷免されて領地である上野国群馬郡権田村に隠遁
 ☆逮捕の理由の一つとして徳川埋蔵金説などが挙げられる
 ☆明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直される
 (大隈重信から近代化政策を行った人として評価される)
小栗の世界一周
 ☆フィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ
 (日米修好通商条約で定められた交換比率が不適当)
 ☆小栗はワシントン海軍工廠を見学
 (日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕し記念にネジを持ち帰った)
小栗の富国強兵策への携わり
 ☆勘定奉行に就任し、幕府の財政立て直しを指揮する
 ☆幕府は海軍力強化のため44隻の艦船を諸外国から購入
 ☆小栗は、駐日フランス公使と製鉄所の具体的な提案を練り上げた
 (横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設開始)
 ☆費用は4年継続で総額240万ドル
 ☆小栗は、幕府陸軍をフランス軍人に指導させる
小栗の経済政策
 ☆フランスとの経済関係を緊密にした
 ☆株式会社「兵庫商社」設立(大阪の商人から100万両の出資を受けた)
 ☆日本初の本格的ホテル、築地ホテル館の建設が始まる
罷免、最期
 ☆15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還、鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる
 ☆江戸城で開かれた評定で、小栗は徹底抗戦を主張したが、慶喜は恭順論を受け入れた
 ☆小栗は、御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡された
 ☆出生地権田村の東善寺に移り住み、村では、水路を整備したり塾を開く
 ☆小栗は、捕縛され、取り調べもされぬまま斬首された
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、BS11『とことん歴史紀行』、WIKIPEDIA












徳川埋蔵金と小栗上野介忠順(『とことん歴史紀行』番組画面より画像引用)

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ