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川島芳子(男装の麗人、東洋のマタ・ハリ) 

2018年03月28日 外部ブログ記事
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川島芳子(清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女)(本名は愛新覺羅顯?)

 ☆粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた
 ☆蒙古族のカンジュルジャップと結婚式をあげたが、結婚生活は長くは続かず離婚した
 ☆芳子は上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事
 ☆芳子は戦後中華民国政府によって漢奸として逮捕され銃殺刑となった

川島芳子の生涯
 ☆川島芳子こと愛新覺羅顯?は粛親王善耆の第十四王女として生まれた
 ☆芳子の養父となる川島浪速は、信州松本藩士の子として生まれた
 (川島は警察行政を管轄する工巡局管理大臣で、粛親王善耆と親交を結んでいた)
 ☆清朝を保全する川島浪速の意見に共感した粛親王は、川島との関係を深めていく
 ☆辛亥革命が勃発すると、粛親王は日本の参謀本部の保護を受けて旅順に逃れた
 ☆幼い芳子も日本へ行くまでの数年間をそこで過ごした
川島芳子として
 ☆来日した芳子は、東京赤羽の川島家から豊島師範附属小学校に通う
 ☆川島の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住
 ☆芳子は、17歳でピストル自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになった
 ☆芳子の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、男装の麗人とまで呼ばれるようになる
 ☆芳子の端正な顔立ちや、清朝皇室出身という血筋、アイドルとして社会現象を巻き起こした
満洲国建国の陰で
 ☆離婚後、芳子は、上海駐在武官の田中少佐と出会い交際するようになる
 ☆田中の回想では、芳子は田中が上海で行っていた諜報活動に関わる
 (芳子は孫科(孫文の長男)と接触し国民党内部の情報を入手)
 ☆田中よれば、中国人を雇って日本人僧侶を襲わせたのが芳子だったとされた
 (田中の発言は、自己の責任を他者に転嫁するなど信憑性には疑問が多い)
 ☆同年に、芳子をモデルにした小説である『男装の麗人』が発表された
 (「日本軍に協力する清朝王女」として、芳子はマスコミの注目を浴びる)
川島芳子の転機
 ☆芳子は国内外の講演会などで関東軍の満洲国での振る舞い日本の対中国政策などを批判した
 ☆芳子は、軍部や警察に監視されるようになっていた
 ☆天津が日本軍に占領されると、芳子は同地で料亭「東興楼」を経営する
 ☆芳子は東興楼時代に知人の紹介で知り合った李香蘭を実の妹のように可愛がる
 (芳子は、李香蘭に君は自分の好きなこと、信じることだけをやりなさい)
 (芳子=僕のようになってはいけない、ゴミのように捨てられる)
安国軍「金司令」は、芳子の逮捕・処刑
 ☆日本敗戦以降、芳子は、中国国民党軍に逮捕され、漢奸として訴追され死刑判決が下された
 ☆国民党は、芳子の諜報活動の詳細が明らかになる事で、党内の醜聞が暴露されてしまう事を恐れた
 ☆溥儀や溥傑などのように愛新覺羅家の一員である芳子を中共が利用する事も恐れ死刑を急いだ
 ☆川島芳子の遺骨は日本人僧侶の古川大航によって引き取られ、後に信州の浪速のもとへ届けられた
 ☆芳子の遺骨はともに松本市の正麟寺にある川島家の墓に葬られた
辞世の詩(銃殺執行後の獄衣のポケットに残されていた)
 家あれども帰り得ず
 涙あれども語り得ず
 法あれども正しきを得ず
 冤あれども誰にか訴えん
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『にほん歴史鑑定』、WIKIPEDIA





















川島芳子(男装の麗人、東洋のマタ・ハリ)(にほん歴史鑑定番組画面より画像引用)

 

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