メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

慶喜

島津義弘(戦国島津四兄弟の次男1) 

2018年03月27日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



島津義弘(合戦の連続であった)

 ☆釣り野伏せ(大友軍と島津軍の九州の覇権を争い)
 ☆島津の退き口(西軍としての関ヶ原の戦い)

島津家の歴史
 ☆東五反田に島津山があり、頂上に旧島津公爵邸(現清泉女子大学本館)がある
 ☆惟宗忠久氏が、源頼朝から島津荘地頭職、薩摩・大隅・日向三ヶ国の守護職に任命された
 (惟宗忠久が島津を名乗った)
 ☆九州の雄、島津氏は長い歴史を擁し、国替えや領地を減らされることなく幕末まで続いた
 ☆島津四兄弟の抜群のチームワーク(総領の義久、武勇の義弘、知謀の歳久、兵術の家久)
 ☆戦国時代、薩摩、大隅、日向三州統一を果たし、九州を席巻す勢い
馬上ゆたかな義弘像
 ☆義弘は数かずの武名をとどろかせた
 ☆朝鮮の戦役後には高野山に敵味方の供養塔を建てて霊を弔った
 (日本赤十字精神の元)
釣り野伏せ
 ☆大友軍と日向(現宮崎県)の高城を挟んで島津軍対峙した
 ☆劣勢になった島津軍はここで得意の釣り野伏の戦法を用いた
 ☆島津のおとり部隊に乗せられた大友軍が高城川を渡河し、陣形が乱れ釣り出される
 ☆背後から島津の伏兵が襲いかかり、正面からは島津本隊の義久・義弘軍が迎え打つ
 ☆高城から家久軍も加わり、三方から包囲、大友軍は壊減状態に陥る
 ☆釣り野伏(木崎原の戦い、島原の戦い、秀古軍との戸次川の戦いでも用いられた)
 ☆島津不敗神話を築きあげた必殺技であり、九州統一を果たす直前までいった
 ☆島津軍も天下統一を狙う豊臣秀古の九州攻めで敗れ秀吉に屈伏
島津の退き口
 ☆秀頼の命令をバックにした三成は、義弘にとっては公儀で島津は西軍に加盟した
 ☆東軍が佐和山城を抜いていて大阪城へ進撃するとの情報が西軍に飛び込んできた
 ☆西軍は急きょ関ヶ原へ転進命令を発し、関ヶ原の決戦となった
 ☆義弘はわずか1500人しか動員できず、本戦ではほとんど動かなかった
 ☆義弘軍、西軍敗北が決定的となったところで、敵の意表を衝く適中突破を敢行
 ☆福島隊、井伊隊、本多隊と交戦し、島津隊は「殿を守れ」と激を飛ばした
 ☆最後尾の小隊が犠牲となり主力を逃す「捨てかまり」の戦術をとった
 ☆大坂に着いたとき、義弘に従った兵はわずか80人
負けるにも負け方がある
 ☆敵に後ろを見せない、敵のど真ん中を空っ切って退去する捨て身の作戦が島津氏を救った
 ☆義弘はなぜ関ヶ原の戦いの本戦を傍観していたのか?
 (義弘は言った「薩摩勢5000人連れてきていれば合戦は勝」
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『戦国と幕末(ハーツ&マイズ)』






島津義弘(戦国島津四兄弟の次男1)(『戦国と幕末』記事より画像引用)

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ