メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

住吉大社と大徳寺 

2018年03月24日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



『狂雲集』には、一休は住吉大社で森に会い、心ひかれて詩を作った。そして半年後再び住吉を訪れた時、森女に再会し、声をかけると、森女も「王孫の美誉」を伝え聞いて、一休のことを慕っていた。それ以来、二人は一緒になった、というのが一般の解説。さらに水上勉によって、森女は女乞食にされてしまった。最近、大徳寺真珠庵前住職、山田宗敏師によって「大徳寺と一休」という本が出、私の疑問がすべて明らかになった。住吉大社では、古来芸能が盛んで、今でも社殿で歌舞音曲が演じられる。「住吉の森」ともいわれることから、森女は住吉大社に仕える巫女。あるいは住吉神宮の神官津守氏の娘だった。あるいは、聖護院や、天河神社も「森」と呼ばれていることから、森女も皇族につながる高貴な出であった可能性も否定できないと。一休は晩年、応仁の乱を避けて、堺、住吉に移住していた。住吉はかつて後村上天皇の行在所にもなったところで、南朝方との結びつきも強かった。一休の母は南方の回し者として宮中を追われたのである。一休は師から大徳寺の法系を継ぐ資格を証明する印可状を受けたが、それを破り捨てている。カタチにこだわるなら、一休は大徳寺の住持にはなれない。しかし前例があった。住吉神宮内の神宮寺の開祖卓念は                                    大徳寺の住持になっており、住吉と大徳寺は深い関わりがあったのだ。一休が大徳寺住持になる伏線として『狂雲集』に森女が登場してくるというのである。「一休は放浪の旅芸人を、単に愛欲だけで囲ったのか」という私のこれまでの疑問はこれで解決。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ