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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧は「南朝」方? 

2018年03月19日 外部ブログ記事
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『虚鐸伝記国字解』によると「虚無僧の祖は楠木正成の子正勝」だという。正史では「楠木正勝」の実在すら不明の人物である。また、普化宗を中国から日本に伝えたのは、由良の興国寺の開山「法燈国師覚心」としている。法燈国師の正史には「普化宗」との関係を示すものは皆無なのだが、なぜ「法燈国師」を普化宗の日本開祖に担ぎ出したのかが謎なのである。その答えは、由良の興国寺が南朝寄りだったからではないかと私は推察している。「興国寺」は鎌倉時代に「法燈国師」によって開かれた時は、高野山真言密教系の寺で「西方寺」だった。それが「法燈」の弟子「孤峰覚明」(1271〜1361)の時、後醍醐帝、後村上帝の帰依を受けて、「興国寺」と改名される。「興国」とは、後村上天皇の1340年から1346年までの南朝の年号である。つまり、「西方寺」が「興国寺」となったのは、二代目住職の「孤峰覚明」の時、1271〜1346年の間のことであった。禅宗に宗旨替えしたのもこの時であろうか。由良の興国寺が南朝方であったことから、一休も「法燈国師」には関心をもっており、詩にも詠んでいる。私の推測だが、虚無僧たちは、一休の詩から「由良の開山、法燈国師覚心」を知り、興国寺が南朝方であったことから「楠正勝」の名を担ぎだしてきたのではないだろうか。そもそも、『虚鐸伝記国字解』は、江戸時代の後半、出自の怪しげな虚無僧宗に対して、幕府の詮議が厳しくなり、虚無僧の由緒を正しくするために、虚無僧の意を受けた者が創作したものと私は考えている。

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