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平成の虚無僧一路の日記

先祖に「琴」の名人が? 

2011年04月25日 外部ブログ記事
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「嘉永5年(1852)」と記した『若松高名五福對』という
史料がある。「会津の高名な文化人」を「相撲の番付表」の
ように 左右に並べて 一覧表にしたもの。

「五福」とは「福・禄・寿・喜・財」のことで、「人生に
おける幸せの追求」を意味するらしい。

漢詩、書、能、狂言、長唄、茶道など かなりの項目があり、
その中に「琴・牧原」とある。「武」一点張りの会津藩に
あって「琴」とは解せない。長い間の疑問であった。

最近になって、ネットで「江戸時代の後半、儒学者の間で
琴が流行していた」ことがわかった。「琴」は儒学者の
たしなみだったのだ。それは、今日一般に演奏される13絃の
「箏」ではなく、琴柱(ことじ)の無い「7絃琴(きん)」の
ことだった。

「7絃琴」は、日本では『源氏物語』以来、長らく途絶えて
いたが、元禄時代に中国明から亡命してきた曹洞宗の僧
「東皐心越」によって、武士階級、儒者の間に広まった。

荻生徂徠、浦上玉堂、佐久間象山、梁川星巖といった人達、
その数は650人余りという。その中の一人に「牧原直亮」
がいた。

「牧原直亮」は、天明6年(1786)〜天保13年(1842)。
「只七直永(150石。山神流兵学師範)」の次男。
 名は直亮、字は景武、只次郎とも称する。
 号は「半陶」。陶淵明の半分にも達しないという謙遜の意。

 学才があり、特に詩文に秀でており、27歳の時に 一夜で
「七絶 100首」を詠じて 藩主より褒美をもらった。

江戸の昌平校に入り、林述斎・古賀精里について朱子学を修め、
江戸藩邸の司業(儒者)雇勤・学頭手伝勤となり、さらに、
8代藩主「容敬」の侍購を勤める。

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