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平成の虚無僧一路の日記

信州「松代藩」に伝えられた『八橋流』とは? 

2011年04月22日 外部ブログ記事
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長野県の松代に「八橋流」が伝承されている。
「八橋流」は途絶えたとされていたが、戦後、松代市に住む
「真田志ん」という女性が「八橋流」を正しく伝承している
ことが判り、昭和44 年には国の無形文化財に指定された。

「真田志ん」は 昭和51(1976)年、92歳で亡くなり、その後、
娘の「叔子」が継承した。その「淑子」も 平成15(2003)年、
90歳で亡くなったことにより、宗家は消滅したが、門下生に
より「八橋流」筝曲は 厳格に伝承されている。

なぜ、松代に「八橋流」が伝承されていたのか。

2代目藩主「真田信政」の側室「お伏(二代目お通)」が、
京都で 八橋検校から直接に筝を習ったという。

その経緯は、『真田勘解由家文書』に記されていた。
「真田勘解由家」は、真田家二代信政と「2代目小野お通」の
子「信就」を初代とする真田家の分家。

「2代目小野お通」とは、その母も「お通」といい、初代
藩主である父「真田信之」が深く思いを寄せていた女性で
あった。この「初代お通(通子)」は、京都にいて、和歌や
書画・琴にも優れ、信長や秀吉らとも親交があったと伝え
られている。最初、塩川伯耆守に嫁いだが、夫が本能寺の
変で討死にしたため、渡瀬羽林家に再嫁。一女をもうけた。
その娘が、上田藩主であった真田信之(信幸)の側室となり、
真田信之(信幸)が 元和8年(1622年) 松代転封に伴い、
母の「お通」も 松代に移り住み、松代で歿した。

娘の「2代目お通」(1587〜1679年) が、京都で、八橋検校から
「八橋流箏曲」を学び、それを 勘解由家に伝えたとされる。

そして、『真田勘解由家文書』では、松代の8代藩主「真田
幸貫」が、藩士の禰津権太夫夫妻を京都に派遣して、八橋流
16代目の「有一座頭」から「八橋流」を習わせ、藩内に
八橋流を広めさせた と記している。(8代幸貫は、陸奥白河
藩主松平(久松)定信の二男)


はてさて、『真田勘解由家文書』の前段部分。「2代お通が
八橋検校から直接『八橋流』を習った」という部分に、私は
疑問を呈する。

「2代お通の 京都在住が、1622年の松代移住前とすると、
「八橋検校」はまだ8歳である。となると、「2代目お通」が
八橋検校から直接習ったというのは 後からの挿話に過ぎず、
江戸時代半ばになって、八橋流16代目の「有一座頭」から
伝承されたものというのが確実ではないか。そうすると、
八橋の時代に『六段』があったという確証は無くなるのだ。

松代藩に伝えられたという「八橋流」は、八橋流16代目の
「有一座頭」から 禰津権太夫の妻千勢が 娘 喜尾へ免許を与え、
喜尾が娘の伊豫(横田家へ嫁す)に伝え、伊豫が娘の由婦(
真田家へ嫁す)に伝え、由婦から孫の「真田志ん」に伝承
されたというのが、正当であろう。


『小野お通』 真田淑子(さなだ・よしこ)著。風景社(長野県長野市)
初版:平成2年5月(1990年) 定価:2500円 A5判

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