メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

宮城道雄の記憶 

2017年10月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



あれは私が何歳の時だったのだろう。たしか歌舞伎座だと思うが、母親に連れられて歌舞伎を見に行った。暗い場面だった。上手の四分の一ほどに黒い幕が下ろされ、そこに薄明かりに照らされて琴を弾く男性の姿が浮かびあがった。母は私にそっと「宮城道雄よ」と耳うちした。幼い記憶では、大きな「平家蟹」が縁の下から這い出てくる場面を覚えている。「宮城道雄」の作品年譜によると「昭和29(1954) 年『平家蟹の舞台音楽』作曲」とある。では歌舞伎座での上演は、この年昭和29年か、せめて翌年の昭和30年だったのだろうか。私はまだ6歳か7歳、小学1年だった。宮城道雄のことは、強烈な印象で鮮明に記憶している。私は、宮城道雄の演奏を生で見聞きした最後の世代ではないだろうか。翌昭和31年6月25日、刈谷駅東にて、列車からの転落事故で帰らぬ人となった。翌朝、新聞各紙が一面トップで大々的に取り上げ、母も「大変大変」と騒いでいた。演奏を見聞きした記憶もまだ新しかったから、日本中が大騒ぎしていたことも記憶している。それから40年後、宮城道雄が亡くなった刈谷市の豊田病院を訪れた際、タクシーに乗って、「宮城道雄の遭難現場に立ち寄って欲しい」と頼んだが、その運転手は「宮城道雄?知らない、わからない」と言う。空しくあきらめたことがあった。それから さらに10年、先日漸く「供養塔」のある公園に行ってきた。事故の原因については、私なりに思うことがある。真実を知る宮城喜代子も、すべてを胸の内にしまって逝かれたか。その後の宮城会はいったいどうなってしまったのか。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ