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平成の虚無僧一路の日記

仏陀「筏の譬え」 

2017年10月15日 外部ブログ記事
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仏典は「如是我聞(にょぜがもん)」(私はこのように聞いた)で始まります。
お釈迦さまは一言一句一字も残しませんでした。字が書けなかった?のではなく
「不立文字(ふりゅうもじ)」文字では伝えないという主義。それなのに
釈迦の入滅から500年、千年も経って、仏教徒を自認する人たちによって、
「私はこのように聞いた」と、何万巻もの経典が作られました。おかげで
ある宗派(禅宗)では「あの世などない、前世も来世もない」といい、
その他の宗派では来世を信じ、また天台宗では「人は死ねば皆仏になる(成仏)」
といい、ある宗派では「いやいや、悪事を働けば地獄に墜ちる」といい、
真言密教では霊魂を信じ、「祖先の霊が災いしている」などと。
あげくのはてに、「お釈迦さまは、その時その時、人を見て法を説かれた。
嘘も方便」と言い訳する。こんな話も
仏弟子の一人が、「私はお釈迦さまから『欲のままに行動しても、かまわない』と
聞きました」というと、他の一人が「とんでもない『欲は障礙(しょうがい)になる』と
私には云われた」と。そこでお釈迦さまに問うと。お釈迦さまは
?
「一人の旅人がいて、川のほとりに辿り着いた。対岸に渡るのに筏を作って
?
渡った。渡り切って、せっかく作った筏だから、次、また川を渡る時のために
?
この筏を背負って旅をしようかと迷った。君たちならどうするか」と。
?
みな、「置いていく」と答えた。釈迦は「こだわりの心から開放されるために、筏の話をした。尊い教えも
?
用が済めば捨て去るべきである」というです。
?
毒蛇に例えれば、一匹の毒蛇を見て、しっぽを捕まえる人、胴の一部を
?
掴んで満足する人。それで安心してはいけない。蛇はすぐにクビスを返して、
?
毒歯で噛むであろう。とも             

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