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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧の元は薦僧 (こもそう) 

2017年09月11日 外部ブログ記事
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「邦楽ジャーナル」虚無僧曼荼羅 No. 9? 2017年 1月号
?虚無僧の元は薦僧 (こもそう)
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「虚無僧」は江戸時代以前は「薦僧(こもそう)」でした。
「薦(こも)むしろ」を腰に付けていたからです。
「薦僧」の初見は『大内氏壁書(かべがき)』。これは室町時代、
中国地方を支配していた大内氏の法令集です。その文明18年(1486)年の禁制に
「薦僧、放下(ほうか)、猿引(さるひき)は領内から追い払うべし」とあります。
一休が歿したのは文明13年(1481)ですから、その頃には薦僧が諸国を往来していたことに
なります。しかし大内氏の領内では、薦僧は不審者として追い払うべしとの扱いでした。
「猿引き」は猿回しのことです。猿は馬の守護神とされ、馬の疫病除けの祈祷という
宗教的意味あいがありました。
「放下(ほうか)」は笹竹を背負い、こきりこを打ち鳴らし、手品や曲芸をして
銭を乞う辻芸人。薦僧と同様、僧ではないのに「放下僧(ほうかそう)」とも
呼ばれていました。当時、薦僧は尺八を吹いて銭を乞うことで、辻芸人と同様に
みなされていたのでした。
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この『大内氏壁書』の禁制から10年ほど後に作られた『三十二番職人歌合』に
「薦僧」が描かれています。これは職人や宗教的芸能者を紹介したもので、
「薦僧」について「貴賤の門戸によりて尺八ふくほかには別の業なき者にや」と
書かれています。
また、この頃に制作された『洛中洛外図屏風』には、尺八を吹いて門付けする二人の
薦僧が描かれています。
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時宗から禅宗へ
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江戸時代の初め元禄の頃まで、天蓋(=深編笠)は無く、浪人が被る三角の笠でした。
薦僧は浪人が喰い詰めて尺八を吹いて銭を乞う所業にすぎなかったのですが、
それを民衆が受け入れる宗教的土壌がありました。諸国を回遊して念仏を広める念仏宗、
時宗(じしゅう)の存在です。尺八は中世、時宗の徒が念仏踊りなどの伴奏に
使っていました。連歌師や琵琶法師も尺八を吹いていたようです。
能の観阿弥、世阿弥、歌舞伎の出雲の阿国という阿弥号は時宗の徒(=時衆)であることを
示すものです。今日日本文化とされる芸能の大半は時衆の人々によって創られたのでした。
そして、能や書、茶道、華道に禅機を吹き込んだのが一休でした。本来禅宗は歌舞音曲とは
無縁です。一休が尺八を吹いたということは、禅者としては風狂のふるまいです。
一休は半ば冗談で「今日から時宗になる。純阿弥と名乗ろう」とも云っています。
一休は普化の風狂にならい、時宗を真似て尺八を吹き、朗庵や一路に影響を与えました。
そして一休の没後100年を経て、茶道の興隆とともに一休ブームが起こり、
『一休咄』などの本が次々と出版されます。浪人者の薦僧たちは、それらの書物から
「普化」を知ったと思われます。なぜなら、薦僧たちが『臨済録』を読むことは
なかったでしょうし、「普化」の名を世間に知らしめたのは一休以外にはいなかったからです。
江戸時代以降、猿引き、ささら者、鉢叩き、放下僧、獅子舞、万歳、ごぜ、鳥追い等の
宗教的芸能者が最下層の身分に位置付けられたのに対して、薦僧が賤民にならなかったのは、
「普化」を祖とする「普化僧」であると主張し、時宗から禅宗に鞍替えしたからと
考えられるのです。
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風の吹くまま
一休さん、正月に髑髏(ルビ:どくろ)を振りかざしながら「門松や冥途の旅の一里塚、
めでたくもあり、めでたくもなし。ご用心、ご用心」と。人々は驚き「なんと、
正月だというのに縁起の悪い」。「なに、これがめでたくないとは?
髑髏は目が出てるから目出たいじゃ。ハハハ」と一休。
「骨になってしまえば皆同じ。男か女かも、やんごとなき姫君か遊女かも
わからぬではないか。面(ルビ:つら)の皮一枚のことで、やれ美人だのブスだのと
比べるのはおよしなさい」とも。これもまた「普化の禅」です。
虚無僧は比較をしない。尺八の上手下手を比べない。ボロもいれば派手な衣装の虚無僧もいる。
善人も悪人もいる。いろいろな虚無僧がいて、すべてを容認する。それが虚無僧の悟り。
明も暗も心の内。私一路は「虚無僧の元祖一休」をテーマに尺八と講演を行っています。
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