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天皇史(後醍醐天皇) 

2017年08月27日 外部ブログ記事
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鎌倉幕府を倒し復古的親政を目指した後醍醐天皇

後醍醐天皇は足利尊氏とともに激動の時代を動かした
 ☆鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、室町幕府成立、南北朝時代
後醍醐天皇は、即位後は院政の愧儡に反発
 ☆院政を廃止して天皇親政を復活させ、白河上皇以来続いた院政は終了
 ☆両統迭立は、後醍醐の意思に反する方向に向かう
 (後宇多上皇崩御後、後醍醐天皇は後二条天皇の皇子に退位を迫られる)
 ☆実現すれば、後醍醐天皇の血筋は大覚寺統の主流から外れ、皇位に就けなくなる
後醍醐天皇は、討幕を決意するが失敗
 ☆後醍醐天皇は隠岐に流される
鎌倉幕府の減亡
 ☆弱体化する幕府に、後醍醐の皇子や楠木正成らが各地で反乱を起こす
 ☆幕府の有力御家人、足利尊氏は当初幕府軍についていたが、反旗を翻して六波羅探題を攻撃
後醍醐天皇は天皇親政「建武の新政」に着手
 ☆朝廷政治を復活で、冷遇された御家人の不満が高まった
 ☆武家の棟梁としての足利尊氏は、後醍醐政権打倒に立ち上がった
 ☆足利尊氏は、一時は九州まで落ちのびたが、京に攻め上り再び都を制圧した
 ☆後醍醐天皇は尊氏と和議を結び、持明院統の光明天皇に三種の神器を譲る
足利尊氏は17条の「建武式日」を定めて、室町幕府を開く
 ☆後醍醐天皇は吉野に逃れ、本物の三種の神器はこちらにあると正当性を主張
 (幕府が容認する京都の天皇を北朝、後醍醐天皇からの吉野の天皇を南朝)
南北朝時代
 ☆足利義満が北朝と南朝が交互に皇位に就くなどの条件で南北朝統一を図った
 (南北朝時代の終了)
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『歴代天皇史(三栄書房)』(綺麗な絵画が記載されています)






後醍醐天皇(『歴代天皇史(三栄書房)』記事より画像引用)

後醍醐天皇は、討幕を決意するが失敗
皇統は天皇が決定すべきであると考えた
鎌倉幕府は元寇の後、御家人に報償を与えられず、様々な問題を抱えていた
最初の討幕計画「正中の変」は、事前に計画が漏れて失敗に終
「元弘の乱」は、自ら山城笠置山に籠城、地方の武士に決起を呼びかけたが失敗
 ☆後醍醐天皇は隠岐に流される

鎌倉幕府の減亡
弱体化する幕府に、後醍醐の皇子や楠木正成らが各地で反乱を起こす
幕府の有力御家人、足利尊氏は、当初幕府軍についていたが、反旗を翻して六波羅探題を攻撃
後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯者国船上山に籠城した
新田義貞が鎌倉を攻め、執権・北条孝時を自害に追い込んで、鎌倉幕府を減亡させた

南北朝時代
足利義満が北朝と南朝が交互に皇位に就くなどの条件で南北朝統一を図った
南朝の御亀山天皇が京都に帰還、三種の神器を北朝の天皇に譲り、南北朝時代が終了
義満は当初の約束を反故にした
実際には北朝の系統がその後も続き、現在まで受け継がれている

南朝の天皇は代々天皇と認められていなかった
明治時代、三種の神器を理由に正統を認められ、歴代天皇に連なることができた。
室町幕府は義満の代が最も隆盛だった時期で、政治の実権は朝廷ではなく幕府にあった
称光天皇、後花園天皇の時代になると、飢饉や一揆が起こる
将軍が殺害されるなど、政治や社会が不安定となり、幕府は弱体化していく

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