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葵から菊へ

松本浅間温泉で疎開学童が遭遇した陸軍特攻隊員の遺族と72年目の巡逢い 

2017年05月28日 外部ブログ記事
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昨日は、東京都民教会で開かれた「第10回戦争経験を聴く会語る会」に参加した。

「疎開学童ゆかりの特攻隊」主催:北沢川文化遺産保存の会 後援:世田谷区教育委員会
?・と号第三十一飛行隊の軌跡   ?きむらけん さん
?・山本薫中尉について      ? 山本 富繁 さん
?・叔父に捧げる歌他 「武揚隊隊歌」再現演奏 池田 宗祐 さん
?・参加者による情報交換 
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きむらけん さんのお話は下記の会報にある記述と同じなので転載し、一部管理人が加筆した。
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第131号       
     2017年6月1日発行(毎月1回発行)
     北沢川文化遺産保存の会 
??    会長 長井 邦雄(信濃屋)
      事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、消滅した武揚隊隊歌の復元を試みる

  下北沢一帯の文化を長年掘り起こしている。情報はイレギュラーバウンドして掘り起こされる。ひょうたんを調べていたら中から駒が出てきて驚く。そんな体験は度々してきた。当地一帯の疎開学童の調べから多くの事実が発掘された。

昭和十九年八月、代沢国民学校と東大原国民学校の学童は浅間温泉に疎開した。翌二十年二月陸軍松本飛行場に特攻隊が飛来してきた。武揚隊と武剋隊だ。沖縄へ特攻に行くためには飛行機を改修しなければならない。爆装改修という。このためには三〜四十日間当地にとどまった。この間に疎開学童と深くふれあった。
 特攻機となった九九式襲撃機は三菱重工業名古屋工場で製作されたので、爆装改修をする予定であったが、名古屋空襲と昭和東南海地震
によって改修時期が遅れたために浅間温泉での逗留が長引いた。
 この特攻隊は、満州新京で発足した特攻四隊のうちの二隊である。大本営直轄の隊である。蒼龍隊、扶揺隊、武揚隊、武剋隊である。直轄隊だけにプライドが高い。分かってきたことは、彼らはそれぞれに隊歌を作っていたことだ。そのうちの扶揺隊のは今日に残されている。

若桜の歌
  一 さらば最後ぞ またの日は 桜花咲く九段ぞと
    笑みつつ 悲し つはものが 清らに交わす 盃や
  二 神治(かみしろしめ)す 国なれば 神勅 相違なきものを
    戦友(とも)よ 戦の理(ことわり)は 国亡びなば 山河なし
  三 人生意気に感じては 朝露(ちょうろ)の命 なにかせん
    大和 島根の 男児(おとこ)ゆえ ああ君は征く 若桜
『読谷村史』第五巻資料編4 『戦時記録』下

 浅間温泉にやってきた武揚隊と武剋隊も隊歌はあったはずだ。しかし、これは残っていない。このうち武揚隊については意外なことが発見された。
 武揚隊は浅間温泉では富貴の湯に滞在した。ここには東大原国民学校の学童が疎開していた。彼らは四十日あまり滞在する。この間、一人の隊員と親しく接したグループがある。その隊員は長谷川信少尉だ。この彼のことは後で分かってくる、「きけわたつみのこえ」に手記を残している長谷川信であった。
 東大原国民学校は浅間温泉では七つの宿に分宿して生活をしていた。そのうちの一つが富貴の湯である。ここには「187人」の学童が暮らしていた。浅間では一〜二を争う大旅館だった。疎開学童と特攻隊を泊めても余裕があった。が、ここで注意を要することがある。この旅館にいたのはすべてが女児だった。
 これも一つのドラマだ、特攻隊隊員は若い、多くは田舎から出てきたあんちゃんたちだった。それが都会からやってきたおしゃまでかわいい子たちに遭遇した。ここ浅間温泉には後に映画監督となる降旗康男少年が住んでいた。この女の子に遭遇して大カルチャーショックを受けている。「東京から来た女の子はだれもが白いふっくらした顔をしていた。私にはまるで外国人に見えてしまった」(『松本平タウン情報』第六号 一九九九年)と。特攻隊のあんちゃんも同じだったろう。

 そういった思いを歌ったのが「浅間温泉望郷の歌」である。「塵にまみれた飛行服脱げば/かわい皆さんのお人形」という歌詞である。これをたまたま覚えていたのが秋元佳子さんである。彼女の覚えていた節をもとに作曲家の明石隼汰さんがこの歌を復元してくださったことはここでは度々述べてきた。今までは言葉の感性からして長谷川信少尉が作っていたのではないかと思っていた。ところが昨年、十一月、武揚隊隊長の山本薫中尉のご遺族が上京されて、「山本薫君の霊前に捧ぐ」という菱沼俊雄氏の手記を持ってこられた。

 私は、宮崎県新田原まで武揚隊の足取りを追って旅をした。彼らは新田原を飛び発ち、九州山地を飛び越え、大陸に渡り、それからさらに台湾の旅に着いた。この間、苦闘特攻三千里だ。彼の乗機は全部で十五機あった、長途の旅でほとんどを失い、たった三機が台湾に着いた。が、彼らは誇りを失わない、めげることなく三次にわたって特攻を敢行している。知られていない事実だけに深い興味を覚える。

 数年にわたる調べで武揚隊のことが分かってきた。菱沼手記は、クロスワードパズルを読み解くような面白さがあった。注目したのは、次の箇所だ。

 高畑保雄少尉はすぐれた山本君の部下達の中でも最も優秀で頼もしい将校でありましたし、五十嵐君と共に武揚隊歌を作りました。

 高畑少尉は大学出の優れた隊員だった。音楽的才能があって武揚隊歌を五十嵐少尉と協力して作ったという。その音楽的な感性は、「浅間温泉望郷の歌」の歌詞にも感じる。その高畑少尉は、求められて浅間温泉で書を遺している。慰問に来た女学生の和綴じ帳に記した。それにはこう書いてある。

以武揚愛国 武揚隊 高畑少尉

ふと思ったことは、この高畑少尉が書いた言葉は武揚隊の歌の一節ではないかということだ。武揚隊のいわれを言葉にしたものだ、決してそれは突飛な連想ではない、その歌詞は、「武を揚げ以て 国を愛しむ ああ 武揚隊」だ。

 実は今回、この高畑さんの甥が参加される。驚いたのはこの池田宗祐さん、音楽的感性を引き継いでいるようだ。叔父を偲ぶ歌「拝啓 三角兵舎より」を作詞・作曲している。今回かれはそれをギターで弾いてくれる。ついでにと思って、「浅間温泉望郷の歌」をもと頼んだら快諾された。ならば、武揚隊隊歌のワンフレーズを手がかりにこれの再現もと考え、彼に提案したところチャレンジしてみたいと、眠っていた「武揚隊隊歌」が再現される。
その一番だ。「いざ往かん 散って九段の花と咲く/大和ますらを 神鷲の/武を揚げ以て國を護らむ/あァ 我らは 神鷲武揚隊」これを彼の作曲で、弾いてもらうことにした。期待されたい。
 なお、当日は、武揚隊山本薫中尉の甥御さんご夫妻が四国小松島から上京される。
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○参考資料   戦争経験を聴く会、語る会 第十回 2017/05/27
1,特攻四隊の発足 昭和二十年(1945)二月十日                 
満州新京(現・吉林省長春)にて特攻隊四隊の編成及集結完了。
・武揚隊=と号第三十一飛行隊山本中尉以下 一五名 機種・九九襲
・武剋隊=と号第三十二飛行隊広森中尉以下 一五名 機種・九九襲
・蒼龍隊=と号第三十九飛行隊笹川大尉以下 一玉名 機種・一式戦
・扶揺隊=と号第四十一飛行隊寺山大尉以下 一五名 機種・九七戦

2.誠第三十一飛行隊(武揚隊)隊員名簿
山本 薫   中尉 二三歳 陸士五六期 特攻戦死 昭和二〇年五月十三日 徳島
五十嵐 栄  少尉 二四歳 特操一期  特攻戦死 昭和二〇年五月十三日 山形
柄澤 甲子夫 伍長 二一歳 航養十四期 特攻戦死 昭和二〇年五月十三日 長野
高畑 保雄  少尉 二二歳 幹候九期  特攻戦死 昭和二〇年五月十七日 大阪
五来 末義  軍曹 十九歳 航養十四期 特攻戦死 昭和二〇年五月十七日 茨城
長谷部 良平 伍長 十八歳 少飛十五期 特攻戦死 昭和二〇年五月二二日 岐阜
藤井 清美  少尉 二四歳 幹候九期  特攻戦死 昭和二〇年七月十九日 京都
長谷川 信  少尉 二二歳 特操二期  戦死   昭和二〇年四月十二日 福島
西尾 勇助  軍曹 二〇歳 航養十四期 戦死   昭和二〇年四月十二日 千葉
海老根 重信 伍長 十九歳 航養十四期 戦死   昭和二〇年四月十二日 茨城
飯沼 芳雄  伍長 十九歳 少飛十四期 戦死   昭和二〇年七月十九日 長野
中村 欽男  少尉     幹候 生還
力石 文夫  少尉 特操二期  生還
吉原 香   軍曹 航養十四期 生還
春田 政昭  兵長     少飛十五期 不明

〇武揚隊の出撃基地は台湾八塊飛行場
○長谷川中尉、西尾軍曹、海老根伍長は、台湾へ前進中与那国島で敵機に撃墜さる。
○飯沼伍長は特攻出撃するも戦果確認できず戦死扱い。
○長谷部伍長は、誠隊から振武隊に転属して知覧から特攻出撃。
 なお、特攻戦死の場合は二階級特進となるがここでは階級は前のままとした。

3.武揚隊の特攻までの飛行コーース
・新京から松本へ 新京一平壌、大邱(たいきゅう)、この後は、大刀洗飛行場→各務原→松本
・松本から台湾へ 松本一各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→ 杭州(筧橋)→台湾八塊                          

4,東大原国民学校 浅間温泉での分宿旅館と収容人数
・富貴の湯 187名 ・桃の湯 50名  ・藤美の湯 59名 ・紅葉館 40名 ・栄之湯 78名 ・比奈の湯 46名.・相生の湯 50名
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きむら けん さん


山本 富繁 さん


池田 宗祐 さん

YouTube
「拝啓、三角兵舎より」〜高畑保雄大尉に捧ぐ〜 作詞・作曲:池田宗祐

「コタンにて〜リクンモシリ」作曲:池田宗祐

「North Seaside Road」作曲:池田宗祐

「チミケップの奇跡」作曲:池田宗祐

「北へ渡った朱鷺たち」作曲:池田宗祐

「Sunset Of 釧路」作曲:池田宗祐

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世田谷区立世田谷美術館前庭の「本郷新作:きけわだつみ」像
(本郷新は世田谷区在住)

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