メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

慶喜

世界史(隋の建国) 

2017年05月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



40年足らずで終わつた『隋』の中国再統一

2代揚帝による人民酷使反乱を招き、40年たらずで『隋』滅亡
 ☆人民の酷使に、飢饉や水害が加わったことによるものだった
反乱軍は、200もの集団が蜂起し、国内最大の穀物倉庫がある洛陽を占領
揚帝は数十万の軍を送り鎮圧を図ったが、反乱軍の勢いはもはや止められなかった
揚帝は離宮で臣下に殺され、『隋帝国』は、2代40年足らずで減亡
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『世界史(成美堂出版)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています


『隋』建国(世界史(成美堂出版)記事より画像引用)

『楊堅』は中華世界を再統一し、中央集権体制を強化
華北の北周の外戚の楊堅は、文帝となって『隋』を建てた
隋は南朝の陳を減ぼし、晋の滅亡以来約300年ぶりに中国統一を果たした

『隋』は中央集権体制を強化
文帝は、北朝の支配体制にならい、均田制、徴兵制を取り入れる
律令(律は刑法、令は行政法)を定めた
租庸調(そようちょう)の税制(租は穀物、庸は労役、調は絹・綿など)を導入
皇帝の農民支配を強め、中央集権体制を強化した
官吏登用法として科挙(隋では選挙とよんだ)を創設した
 ☆科挙制度は、清朝末期に廃止されるまで、1,300年余続けられる
科挙は、学科試験によって官吏を採用するもの
 ☆皇帝による中央集権体制を強固にするねらいがあった

民衆への過重な負担が反乱を招く
揚帝は文帝の次子は(兄を失脚させ、父文帝を殺害)して帝位についた
揚帝は、大運河を完成させ、江南の物資の華北への流通が容易になり、南北の統合が進んだ
大土木工事では100万人を超す民衆が動員され、過重な負担を強いられた
揚帝はこの運河をしばしば遊びに使い、数千隻もの船を農民に曳かせた
万里の長城の改修・王宮や離宮の造営などにも民衆が動員された
 ☆大和朝廷は、揚帝のもとへ遣隋使を派遣して
揚帝は高旬麗が突厭と結ぶことを恐れ、3度にわたる高句麗遠征を敢行し失敗した
皇帝の権威は失墜し、各地で農民の反乱が起こる

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ