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平成の虚無僧一路の日記

法燈国師は普化尺八の伝来者に非ず 

2017年05月11日 外部ブログ記事
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昨年5月以来、『邦楽ジャーナル』に 虚無僧の歴史について連載しております。
原稿を書きながら、元史料をチェックしていると、とんでもないことに気づきました。
普化尺八の由来については、たいていの書物が 次のように書いています。
『虚鐸伝記国字解』(1795)によると「由良の興国寺の開山法燈国師学心が 宋に渡り
張参から普化の禅と虚鐸(普化尺八)を学び、帰国した。その際4人の居士も連れてきた」と。
ところが、『虚鐸伝記国字解』の原本を読むと、「4人の居士は、日本に帰国してから
虚鐸を教えた4人の弟子」となっています。つまり中国からの渡来人ではありません。
岡田冨士雄氏の『虚無僧の謎---吹禅の心』(秋田文化出版)では、
「『虚鐸伝記国字解』に従って記すと(4人の居士)の法普(法伏)、僧恕、理正は
鎮州人、国佐は済州人」と、まことしやかに述べています。
ところがところが、『虚鐸伝記国字解』にはそのような記述はありません。
さらに岡田冨士雄氏は別項で、なぜか中国からの渡来人4人は覚心の第一の弟子
「寄竹」の弟子となっています。
さて、別の書物では、
「南部藩からの問い合わせに一月寺隠居が答えたという『問答集』(1753)には
普化宗の由来として[法燈国師覚心が帰朝の際同船してきた四人の居士が普化尺八を
広めた・・・」とあるのですが、『問答集』にそのような記載はありません。
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でも、宮地一閑の『尺八筆記』(1813)の「一月寺の縁起」には
「法燈国師tが帰朝の際、普化の法流の四人の居士、宝伏、理正、宗恕、国作が
同船してきた」と。
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また「京都明暗寺の縁起=『虚霊山(明暗寺)縁起』」(1735)でも、
「法燈国師覚心が帰朝の際、宋人の国作、宗恕、理正、法普という
四人の居士が同船してきた。四人の居士は普化を祖とする瘋癲漢で
尋常尺八を弄し、遊戯三昧。その住んだ所を普化谷という」と。
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ということは、この両寺の縁起によれば、「法燈国師覚心が自ら普化尺八を学び
日本に帰って、広めたのではなく、普化尺八の祖は中国から覚心に着いて
やってきた四居士であって、法燈国師は普化とは全く関係がない」ことに
なります。これがホントでしょう。
「法燈国師が自ら普化尺八を学んで、日本に広めた」とするのは
『虚鐸伝記』だけなのです。ということは『虚鐸伝記』がある意図をもって
縁起をねじまげ、粉飾したことになります。
その理由が明らかになりました。
この当時、1760年代、京都の明暗寺が、関東の一月寺、鈴法寺に対抗して
「京都明暗寺こそが虚無僧の本山である」との訴えを幕府に出していました。
明暗寺としては、中国から渡来した四居士が各地にちらばって虚無僧寺を建てた
のではなく、興国寺の開山「法燈国師覚心」が普化尺八の伝承者であって、
その弟子「寄竹(虚竹)」によって京都明暗寺が、寄竹の弟子「宝伏・金先」に
よって一月寺ができた」と、自分の優位性を主張するために、『虚鐸伝記国字解』を
捏造したのでした。

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