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平成の虚無僧一路の日記

イエズス会の神学校「セミナリオ」 

2017年04月01日 外部ブログ記事
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セミナリヨは、1580年イエズス会によって設置された神学校で、
オルガン奏者,合唱者,画家,彫刻家,印刷工の養成機関でもあった。
イエズス会のバリニャーノの提案により,天正8 (1580) 年、安土に
設けられたが,1582年本能寺の変で、安土城とともに焼失し、移転を重ね,
慶長 19 (1614) 年島原半島の有家を最後に廃止された。
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 スペインと日本との間で最初の外交交渉が交わされたのは、1609年の
ことである。スペインはその植民地を中南米からフィリピンにまで拡張していた。
1609年、フィリピンを出港して、メキシコへの帰国途上にあった帆船
サン・フランシスコ号が暴風雨のため、上総国の岩和田に漂着・難破した。
提督のビベロをはじめ多数の乗員は村人に救助され、ビベロは江戸城で
徳川秀忠と、また駿府で家康と謁見し、これがスペインと日本の最初の
外交交渉へと展開することになる。
ビベロ一行は、1610年、新船を建造して帰国すると、翌年                                      
スペインは、ビベロ一行の救助と送還に対する答礼使としてビスカイノを
日本へ派遣する。それを口実に日本の北にあると噂されていた「金と銀の島」の
探索が目的でもあった。
ビスカイノは1611年、秀忠と家康に謁見している。江戸で伊達政宗にも
会い、奥羽への探検旅行を試みる。目的は金銀島の探索である。このビスカイノ
一向がイエズス会の神父を伴って、仙台に向かう途中で、会津に立ち寄ったで
あろうことは、十分考えられる。
ビスカイノは正宗の厚遇を得て、仙台湾、石巻湾、牡鹿半島、雄勝湾、
気仙沼湾の測量を行いながら、金銀島を探した。この時「三陸沖大地震」があり
東北大震災の時と同様の大津波に遭遇している。丁度400年前にも大地震は
あったのだ。
伊達政宗はビスカイノとの交流を通じて「遣欧使節」の派遣を企画する。
ところが、江戸幕府は、翌年の慶長17年(1612)7年、幕府直轄地に対して、
教会の破壊と布教の禁止を命じた「禁教令」を布告する。直轄地にとどまらず、
家臣の中にキリシタンがいる大名は改易させられ、キリシタン大名の
有馬晴信腹にが切腹となり、キリシタン大名は完全に姿を消された。
そして翌1613年、幕府は禁教令を全国に広げた。また合わせて
「伴天連追放令)」が秀忠の名で公布された。
この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年
修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放された。
その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいた。
公的にはキリスト教は禁止になったが、依然としてキリスト教の活動は
続いていた。密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。
幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、宣教師は南蛮貿易
(特にポルトガル)に深く関与していたためである。

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