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仏教(興福寺) 

2017年03月30日 外部ブログ記事
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藤原氏の氏寺として隆盛を誇った興福寺の歴史

京都市山科に建立された山階寺に始まる
 ☆藤原鎌足が造立した釈迦三尊を安置した山階寺
飛鳥に移転して厩坂寺となる
平城遷都とともに奈良盆地に移って興福寺となった
法相宗の大本山、江戸時代には大名級の寺領を誇りました
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、『仏教(成美堂出版)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています




興福寺(仏教(成美堂出版)記事より画像引用)

興福寺が大寺院になった要因
藤原鎌足(天皇の外祖父)の次男藤原不比等の時代に大寺院となる
 ☆不比等は、律令制国家の完成を主導したほか、平城遷都を取り仕切った
 ☆不比等は、父にゆかりの興福寺に平城宮東方の高台という絶好の土地を与えた
藤原氏の氏寺として隆盛をきわめるきっかけをつくった

藤原不比等の死後の興福寺
不比等の外孫聖武天皇や、娘の光明皇后により、東金堂や五重塔の主要伽藍が建立された
平安遷都後も、藤原氏(藤原北家)の繁栄とともに興福寺の権勢は拡大の一途をたどる
 ☆畿内に多くの荘園を有し、強訴によって中央の政治をも動かす一大勢力となる
武士の時代の鎌倉時代以降も一定の権勢を維持
江戸時代には、大名に相当する2万石以上の寺領を有している

興福寺は、政治的な動乱に巻き込まれた
平重衡の南都焼打ちでほぼ全焼
明治初年の廃仏毀釈でも大打撃を受けた
興福寺は火災の多い寺院です
 ☆中心伽藍である中金堂は過去に7度も焼失している
1717年の焼失以後は仮堂や仮金堂というかたちで再建されていた中金堂
2018年には、創建当初の規模の中金堂が完成する予定

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