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僕のひいじいちゃん 

2013年07月31日 外部ブログ記事
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今から約500年以上前の文明2年(1468年)関白太政大臣一条教房は文明・応仁の乱により荒廃した京都を避け土佐の国幡多郡中村、今の高知県中村市へ下向した。一条家は幡多郡に領地を持っていたので、この地に居を構え、街と文化を京の都に習い中村市の基を造った。これが土佐一条家の起源である。中村を中心に文化的、経済的に栄えた一条氏であったが、天正9年(1581年)内政が長宗我部に敗れることにより、一条氏は土佐の歴史の表舞台から消えた。この一条氏を先祖とする伊藤家は代々医者として土佐の地にあった。幕末の頃17代伊藤隆昌は勤王の志士として土佐を脱藩し、土佐街道を仁淀川沿いにさかのぼり伊予を経て京都に上がろうとした。途中猛烈な病に襲われ動けなくなり、旧伊予の国久万山黒岩村、現在の久万高原町の素封家、酒造業の安宅家で看病を受ける。やがて回復に向かい旅立とうとしたが、病はあまりにも重く旅の出来る状態ではなかった。やむなく勤王の志を断念し安宅家の婿となり、医療により村に尽くす決心をし村医者となる。やがて1児隆見をもうける。18代隆見は
長崎で医学を修了し村へ帰ってきたが、その時既に父母は他界していた。そこで隆見は再び伊藤姓にもどり医業を継いだ。18代は子に恵まれなかったので、温泉郡重信町志津川(現東温市)諏訪家より天保14年(1843年)生まれの寛平を養子として迎え、19代伊藤寛平となり医者を継ぐ事となる。
以下より、愛媛県上浮穴郡教育委員会発行の冊子「上浮穴郡に光をかかげた人々」より抜粋要約して寛平さんを紹介したい。
寛平さんは病気の子供の顔を見ただけで病名がわかる「子供の神様」といわれる小児科の名医で多くの人を助けた。また「医は仁術」を身をもって実践した人でもある。貧しい人の味方で治療費を家の貧富の等級で決めていたといわれ、貧しい人からは治療費を受け取らず逆に患者に米などを与え栄養をつけて早く治すようにと励ました。
ただ心の優しい人であった故か外科の治療だけは苦手で、妻フサが受け持っていたといわれる。これらに関してはいろいろのエピソードがあるらしい。
彼は優れた医者であると同時に芸術を愛する人でもあった。書画に優れた才能を持ち村の寺社にたくさんの絵や書を奉納したとのことで、現在も残っているかもしれない。五男四女をもうけ、村を愛し皆に慕われた医者寛平であったが、医学を学ぶ半ばの次男省三郎を若くして病で失った。この事で寛平さんの落胆は非常に大きく病の床につき、明治37年(1904年)61歳の生涯を終えた。
 
参考資料 中村市市役所ホームページ
       図説高知県の歴史    河出書房新社
       上浮穴郡に光をかかげた人々  久万町教育委員会編
       伊藤家の歴史と系図
 
赤ひげ先生と親しまれていたそうです^^
       

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