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平成の虚無僧一路の日記

法燈国師覚心と時宗の関わり 

2017年03月28日 外部ブログ記事
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時宗の一遍智真(1239〜89)と無本覚心の邂逅についても                                   『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』や『一遍聖絵』『一遍上人絵詞伝』には                             みえないが、一遍の異伝では無本覚心との説話がいくつかある。建治元年(1275)一遍は熊野に詣でた後、紀州真光寺(西光寺か)に赴き、                              心地(無本覚心)にまみえた。無本覚心は「念起即覚の語」を示すと、                               一遍は和歌で、「唱うれば仏も吾もなかりけり南無阿弥陀仏」と示したが、                             無本覚心は「未徹在」といった。建治2年(1276)4月、一遍は再度熊野に                             詣でたが、路傍にたまたま律僧に出会った。一遍はなおも冥慮を仰がんと                                      欲して、証誠殿に詣でた。神は「三心のさはぐり有るべからず。                                  凡そのこの心は善き時も悪き時も迷なる故に、出離の要とはならず。ただ                              南無阿弥陀仏が往生するぞ」といい、「西へゆく道にな入ぞ苦しきにも                               との実りのあとを尋よ」という和歌を得た。ここにおいて一遍は解他力深義を領し、                         自力意楽を捨てた。再び紀州由良に戻って無本覚心にまみえて、和歌を呈した。                           「捨て果てて身は無きものと思いしに寒きぬれば風ぞ身にしむ」と。そして                             ついに印可を受け、手巾・薬篭を得た(『一遍上人行状』)。弘安10年(1287)3月に一遍は兵庫に至り、結縁しようとする道俗の人々は                            一遍の周囲に群を形成していた。光明福寺の住持は和歌を呈した。同郡の宝満寺には                           由良の法灯国師(無本覚心)が在住していた。一遍は参謁しすると無本覚心は                            念起則覚の話を掲げた。一遍は和歌で心のうちを述べたが、禅師は「未徹在」と                          いって斥けた。一遍はまた和歌を述べると、禅師は手巾と薬篭を一遍に附属して                                印可とし、「この2物は信を表わしている。後人の標準としなさい」といった。                            一遍は踊念仏を起こした(『一遍上人年譜略』弘安10年条)。この両伝記とも、無本覚心にまみえた年が建治元・2年(1275・1276)と、                            弘安10年(1287)と大幅に隔たっており、邂逅した場所も、紀州真光寺                                 (西光寺か)と兵庫宝満寺と異にしていることから、一遍と無本覚心との                              関係説話には疑問が持たれるところであるが、これらの説話について                                禅と念仏を結びつけるために五山禅僧によってつくられた説話とみられている。
一遍は法語のなかに無本覚心の得法の機縁の語を引いており、一遍が無本覚心の                           ことを知っていたことは事実であったろう。
また時宗四条派の祖である浄阿真観(1276〜1341)もまた無本覚心に参禅した                           という説話がある。
浄阿は諸国を修行していたが、紀伊由良に到って心地(無本覚心)にまみえ、                               座下にあって禅法に励むこと6年間、端座して修行した。ある時無本覚心にむかって                           「長年修行しているとはいえ、いまだに一分の鼻孔すら得られません。なおも                             修行すべきでしょうか。又(何か)示されることはないのでしょうか」といった。                            無本覚心は「長年の工夫で得られなければ坐禅すべきではない。また法性というものは                        教外別伝であって、言説をもってのべるべきではない。ただ熊野に参詣して祈請しなさい」                       といった。そこで浄阿は熊野本宮に参詣して祈請してみたが効果はなかった。                            翌日に熊野新宮に参詣すると、夜夢に念仏の形木を賜って「この札を賦して衆生に                           利益しなさい。名は一阿弥陀仏と付けなさい」という神託に預かった。                               そこで由良に下向して無本覚心にまみえ「熊野に詣でて念仏の法を得ました」といった。                       無本覚心は「いかなるか念仏」と問いかけ、浄阿は「南無阿弥陀仏」と答えたが、                            無本覚心は「よしとするには不足である。また参詣しなさい」といった。                              また浄阿は熊野に参詣して下向した。無本覚心は「いかなるか念仏」と再度問いかけると、                       「南無阿弥陀仏」と答え、無本覚心は「よし」といった。それより浄阿は念仏を勧進して                            諸国を修行した(『浄阿上人伝』)。
この説話について、浄阿を祖とする四条派が、対立する遊行派の七条道場に対する正当性を                      主張するため、浄阿の師の一遍と同じ宗教的体験をした説話が形成されたとされる。

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