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徳川和子(将軍の子供初めて皇后へ) 

2017年01月30日 外部ブログ記事
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徳川 和子(徳川秀忠の娘)

徳川家康の内孫、後水尾天皇の中宮、明正天皇の生母、女院として東福門院
気が強い夫後水尾天皇と幕府の間を取り持つことに奔走する気苦労の多い生涯でした
生んだ子供は、2男5女、2皇子はすべて早世している
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・画像・番組等で確認ください
出典、BS・TBS『高島礼子・日本の古都』
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます












徳川和子(テレビ番組『高島礼子・日本の古都』画面引用)

徳川和子の入内迄
徳川秀忠と正室・江夫妻の間に生まれた7番目の子(五女)
後水尾天皇が即位し、家康は和子の入内を申し入れする
入内は、大坂の陣・家康の死去・後陽成院の崩御などで延期された
後水尾天皇が寵愛する女官が、皇子を出産し入内は問題視される
秀忠自身が上洛し、宮中より関係者を追放することなどで合意した
和子は、後水尾天皇の女御として入内する

徳川和子の入内と懐妊
皇女・女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する
和子中宮となり、女二宮が誕生する
高仁親王を出産したが、高仁親王は夭折
紫衣事件が発生し、後水尾天皇は突然譲位する
女一宮が即位し明正天皇となる

徳川和子人物
家康は、徳川家を天皇の外戚とするべく和子を宮中に送り込んだ
産んだ子供2男5女のうち、2皇子はすべて早世している
気が強い夫・後水尾天皇と幕府の間を取り持つことに奔走する気苦労の多い生涯でした
修学院離宮を建てた費用の大半が、和子の要請により幕府から捻出された
茶道を好み、千利休の孫を御所に招き茶事を行う
手先が非常に器用な女性であり、特に押絵を得意とした

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