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雑感日記

田崎雅元さん 

2017年01月17日 外部ブログ記事
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★ 夕方の6時、突然電話が鳴った。
 受話器をとってその声を聞いてホントにびっくりした。 
 その声は、田崎雅元さんだった。 全く昔とおなじ田崎さんで、それから7時15分まで、1時間以上喋っていた。
 田崎さんの電話はいつも長いのだが、その電話もこの4年間全くなかったのである。ちょっと体調を壊していて、電話もできないぐらい悪かったのに、昨年末あたりから復調したという。
延々1時間以上話していたが、話ぶりからは100%昔の田崎雅元さんがそこにいたのである。
いろんなカワサキの仲間がいるが、一番腹を割って『話が出来る』のは田崎さんかも知れない。なかなか1時間の長電話など普通では出来ないものである。長い電話と言えば、大槻幸雄さんとも、長い電話をすることがある。
お二人とも、創世期のカワサキのレース仲間だし、一緒にいろんなことをした仲間だから長電話も大丈夫なのである。
カワサキがレースで初めて『監督というポジション』を創ってレースをしたのは、昭和40年(1965)の鈴鹿6時間耐久レースで、大槻幸雄監督・田崎雅元副監督だったのである。
これは、たまたま次回の『カワサキの二輪事業と私 昭和40年』の年のことなのである。そして同じ年の8月、大槻さんはドイツへ、田崎さんはアメリカへ行くことになって二人の送別会をやったりしてるのだが、そんな田崎さんが、戻ってきて、私は本当にうれしいのである。
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★実は、電話がある前に、田崎さんには、手紙を書いて出したところなのである。
私は、2年ほど前から年賀状を出すのを止めてしまったのだが、田崎さんから早々と賀状を頂いていたのである。
どうしようかなと、思っていたのだが、『寒中見舞い』ということで、結構長文の手紙をしたためたのである。その中にも『もしできるのなら電話でも下さい』と書いたので、それで掛かってきたのかと思ったが、手紙の投函は昼過ぎだったから、それが着いているわけはないのである。
そういう意味ではいいタイミングだった。
電話でいろいろ話す前に書いているので、『よかった』と思っている。
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 これは、何年前になるのだろう。 東日本大震災のあった年の同じ3月の初めに、平井さんが主宰した『カワサキの想い出、そして未来』での幕開けの挨拶をしてくれた田崎さんである。
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その後も彼とはいろいろあって、毎年開催されているカワサキワールド主催の『ミニ・トレイン』もそれを起案したのは、福井昇くんと私だし、それを田崎さんが、神戸市に繋いでくれて実現したのである。
   
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 私の現役時代、レース時代からずっと密接に関係があって、いろんなことを二人のコンビで仕上げたプロジェクトもいっぱいなのである。そういう意味では、一番長く付き合ったのが田崎さんなのだが、この数年体調を崩して、表に出てこなかったのだが、電話の調子は、全く以前と変わりはなかったのである。
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 今年はどんな年になるのかな? と思っていたが、年初から想定外のことが、中山和子さんの『ビオ・ファーム丹波』に続いて『田崎雅元さんの復活』と二つ続いている。
 酉年の年男なのだが、今年はオモシロくなるかも知れない。

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