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平成の虚無僧一路の日記

三法師は秀吉の「親戚の子」だった 

2011年02月21日 外部ブログ記事
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2/20 NHK大河ドラマ『江』。信長の跡目争いで、秀吉は、
本能寺の変で信長と共に殺された嫡男信忠の子「三法師丸」を
担ぎ出す。清洲の城に連れてきて、寧々や「お江」に「親戚の
子じゃ」と、あいまいに隠すセリフがあった。

調べたらなんと、秀吉は、本能寺の変より3年前に、信長の4男
「秀勝」を養子にもらっていたのだ。ならば、秀吉は信長の子
「秀勝」の養父であるから、「三法師」も親戚となる。あながち
嘘ではなかったのだ。 

子の無かった秀吉は、天正7年(1579年)信長にねだって、4男
「秀勝」を養子にもらっていた。織田家の中で勢力を得るための
布石は、この時から用意されていたのだ。さすが智恵者。

秀勝は、天正10年(1582年)3月、秀吉の備中児島城攻めで
初陣を果たし、本能寺の変の後の明智光秀追討の弔い合戦では、
秀吉は この秀勝を擁して 大義名分を立てた。信長の葬儀に
喪主を務めたのは、この「羽柴秀勝」だった。

織田家の跡目相続では、羽柴秀勝は、明智光秀の旧領「丹波
亀山城」をもらう。しかし その3年後の 天正13年(1585年)
秀勝は 丹波亀山で病死する。享年18。

この年、秀吉は「関白」になっており、織田家の血筋は、もう
用済みだった。(ひょっとして秀吉の手の者に毒を盛られたかも)

そして秀吉は、「羽柴秀勝」が亡くなると 即、姉の子を養子にして、
「豊臣秀勝」として、「羽柴秀勝」の跡の亀山を継がせている。

この秀吉の甥である「豊臣秀勝」が「お江」の2度目の夫であり、
二人の間には「完子」が生まれているのである。この豊臣秀勝は
文禄元年(1592年)朝鮮出兵(文禄の役)に従軍し、在陣中に
病死する。

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