メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

会津藩からの留学生 その3 

2016年10月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



山川浩(大蔵)、健次郎の妹「「山川捨松」は日本最初の女子留学生5人の1人。北海道開拓使黒田清隆の「女子にも教育を」との計らいで、永井繁子(10)、上田悌子(16)、吉益亮子(16)、津田梅子(9)、山川捨松(12歳)の5人が、明治4年(1871)岩倉使節団に随行してアメリカに渡った。使節団は、木戸孝允(長州)、山口尚芳(肥前・佐賀)、岩倉具視(公家)、伊藤博文(長州)、大久保利通(薩摩)ら約50名の政府役人の他に、約60名の留学生が随行しており、その中に兄の健次郎もいた。捨松は、アメリカの高校、大学を優秀な成績で卒業し、11年後の明治15年帰国する。しかし、男尊女卑の日本では女性が就く公職はなく、翌年、薩摩出身の大山巌元帥に見初められて結婚する。大山巌は、西郷隆盛の従兄弟で、戊辰戦争では会津攻撃の総指揮官だった。その仇敵大山巌に嫁ぐとはと、当時大変な騒ぎとなった。捨松は、長身で面長、洋装がよく似合い、アメリカ仕込みの高い教養に大山巌が惚れ、捨松も外国かぶれの大山のジェントルマンぶりに惚れたという。デートの時、薩摩弁と会津弁では通じなかったが、英語だとスムースに心が通じ合ったという。こうして捨松は、大山巌婦人として「鹿鳴館の貴婦人」として名声をはせた。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ