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(転送)野党連合の鳥越俊太郎擁立に対する批判に怒り心頭……斎藤美奈子批判 

2016年07月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



長谷川です 友人からのメールを転送します。
----------ここから原文----------
私は気が小さいので、今週からは怒りより怖さをヒシヒシ感じます。
7月10日後、数日間はツィッター見る気力も無く、しかし、その間の都政選挙に快刀乱麻のブログがありました。
この北林さんって凄い!
下記は北林あずみさんという方のブログ安曇野賛歌『風よ、安曇野に吹け』からです。(ご存じの方すみません)

(詳細はhttp://blogs.yahoo.co.jp/azuminonoyume/32753437.htmlをご覧あれ)

野党連合の鳥越俊太郎擁立に対する批判に怒り心頭……斎藤美奈子批判


「草刈りの肉体労働に出掛けたのだが、9時前から土砂降りの雨になり、帰宅してき
たところだ。

シャワーを浴びて缶ビールを飲みながらTwitter
を覗いていると、宇都宮健児が東京都知事選の出馬を取り下げた経緯について、鳥
越俊太郎に一本化した野党連合を批判する斎藤美奈子の記事が目に付いた(
http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00101.htm)。

思わず「アホか!」と、パソコンの画面に向かって言っていた。

わたしは文学を志しているが、斎藤美奈子は作家の登竜門である新人賞に深く関わ
ってきた。わたしは斎藤美奈子は高橋源一郎とともに、日本の文学の衰退を招いた
張本人だと確信している。斎藤美奈子は批評も行っているが、似非批評家というも
のは、えてして切り口と視点の斬新さだけに頼るきらいがある。何故ならば、批評
家としての本質的な眼力が備わっていないことを自覚しているからだ。

斎藤美奈子の批評は表面的にみれば斬新で鋭いようにみえるが、本質へと肉迫でき
る眼力とは遠くかけ離れている。本質に迫れないから、表面のどうでもいいことに
目がいき、あーでもないこーうでもないとご託を並べる。そして、本質を見えなく
してしまうのだ。文学もそうである。斎藤美奈子がやってきたことは、文学の本質
を蔑ろにし、文学の本質を貶めていることに気づかない。

斎藤美奈子は野党連合の候補一本化について、「至上命令は選挙に勝つこと。その
ためには都知事職に強い意欲をもって準備してきた候補者をつぶしてもいい。そう
いう判断だったわけですよね。

それは『組織の勝利のためには個人は犠牲になっても仕方がない』ってことでしょ。
そういうのを何というか。全体主義というのよ。『個人の自由と権利は何にもまし
て尊重されるべきである』というリベラリズムの思想とは百八十度逆です。

最終的に下りる決断をしたのはU氏本人だったとはいえ、そこまで彼を追い詰めたの
は誰だったのか。野党の幹部と、野党支持の市民だったわけよね。『勝てる候補っ
て何?
目的は選挙戦に勝つことなの? よい都政をやってもらいたいってことが目的じゃな
いの?』と言っている」と感情的に批判している。

わたしは斎藤美奈子の言葉を斎藤自身に投げつけてやりたい。本来の目的を見失い、
また蔑ろにして、目先の売れる商品としての文学を追い求めてきた出版社と一体と
なって文学を貶めてきた張本人は、どこの誰だったのだろうか。

これから、野党連合と野党連合を支持する市民を批判する斎藤美奈子の的外れな論
旨と論理矛盾を手厳しく批判したい。

斎藤美奈子は単純である。

斎藤は、「個人の自由と権利は何にもまして尊重されるべきであるというリベラリ
ズムの思想」と大上段に構えるが、そんなもの百も承知である。

斎藤美奈子は歴史が見えていない。リベラリズムの思想という赤児を取り上げた助
産婦は西欧近代主義を準備した西欧の啓蒙思想である。

斎藤は赤児が一度産声を上げれば、その赤児はもう安全にすくすくと育つと考えて
いるようだ。

リベラリズムを内包するはずの西欧近代主義の歴史とは戦争の歴史でもある。

斎藤が大上段に振りかざす「個人の自由と権利は何にもまして尊重されるべきであ
るというリベラリズムの思想」が核にあるはずが、どうして二十世紀は戦争に明け
暮れる時代だったのか、批評家ならば少しは考えるべきだろう。

人間は個人では生きられない。人間とは社会的な生き物であり、また社会を反映し
た歴史的な生き物でもある。

一人の個人がいくら「個人の自由と権利は何にもまして尊重されるべきであるとい
うリベラリズムの思想」を声高に叫んでも、社会と時代と歴史は、そんな声をせせ
ら笑うかのように、有無を言わさず、戦争へと突き落としてきたのだ。

権力者と為政者は個人の声などどうでもいいものであり、痛くも痒くもないのであ
る。社会と時代と歴史の回転を、権力者と為政者の思う方向へと変えてしまえば、
個人の声などひとたまりもないのだ。

つまり、社会と時代と歴史によって、「個人の自由と権利は何にもまして尊重され
るべきであるというリベラリズムの思想」が成り立つという厳粛な歴史的真実と、
真摯に向き合うべきなのである。

ナチズムへと雪崩れて行った社会に、「個人の自由と権利は何にもまして尊重され
るべきであるというリベラリズムの思想」などという声が許されただろうか。また、
戦前の日本のファシズム国家に「個人の自由と権利は何にもまして尊重されるべき
であるというリベラリズムの思想」だと声を張り上げられただろうか。声を張り上
げようものなら、非国民と名指しされて憲兵にしょっ引かれていくだろう。

斎藤美奈子に訊きたい。

戦前の日本のファシズム国家体制の社会で、「個人の自由と権利は何にもまして尊
重されるべきであるというリベラリズムの思想」だと、あなたは声高に叫べると思
っているのですね、と。

戦前の日本のファシズム国家体制の社会においてその声を上げ続けたのは、地下に
潜って非合法で活動していた日本共産党くらいだろう。

その覚悟もなく、「個人の自由と権利は何にもまして尊重されるべきであるという
リベラリズムの思想」だと大上段に振りかぶったところで、そんなものは虚言にし
かすぎないはずだ。

歴史を真摯に学べば、日本のおかれた政治的状況と社会的空気が、ファシズム国家
体制へとなし崩し的に雪崩れて行った日本の戦前の政治状況と社会的空気と酷似し
ていることがわかるはずだ。

いやしくも文学を語っているならば、田宮虎彦の『琵琶湖疎水』と『足摺岬』を読
むまでもないだろう。文学とは社会的空気に誰よりも敏感だからだ。それが文学的
感性というものだ。

おそらく斎藤美奈子には文学者にあるべき社会的空気を感じ取る感性が欠落してい
るのだろう。そして、社会的空気がどれほどの重要性と意味をもっているかを分か
っていないのだろう。

安倍政権の走狗となったNHK
がどうして中国脅威論と北朝鮮脅威論をあからさまに社会に蔓延させようとしてい
るのか。ナショナリズムの高揚である。ナショナリズムの昂揚とは、国民主権と個
人の自由と権利の重要性を国民自らで忘れさせ、国家主権を絶対化して、幻想とし
ての国家へと国民の心を熱狂的に収斂するものだ。

肉体労働をしているわたしの同僚達はもう既にNHK
の洗脳に毒され、中国に対して武力で対抗すべきだとまで言っている。斎藤美奈子
は、理性と教養と論理的思考能力がないからだというのだろうが、社会的空気とは
理性と教養と論理的思考などとは真逆のもので出来上がっているのもなのだ。だか
ら、一度そうした空気が出来上がってしまえば、理性と教養と論理ではどうにもな
らないのだ。だから恐ろしいのである。文学を語っているなら、そんなことは分か
っていなければ嘘だ。何故ならば、文学とは人の心と無関係ではないからだ。

歴史的分岐点とは何か。

社会と時代と歴史が、引き返さない奈落への道へと転がり出す地点にあるというこ
とだ。奈落の道とは、戦前の日本のファシズム国家体制が突き進んだ戦争の道であ
る。

その社会には、言論の自由もなければ信教の自由もなく、基本的人権などない。斎
藤美奈子が「個人の自由と権利は何にもまして尊重されるべきであるというリベラ
リズムの思想」だと主張すべば、投獄されてしまう社会なのである。

現状の政治的状況をみて、歴史的分岐点だという危機感を抱かないとしたら、よほ
どの政治音痴であり、時代を読み取る政治的感性がないといえる。文学的感性は、
政治的感性よりもより鋭く時代的空気を感じるといえる。

斎藤美奈子には政治的感性は元より、文学的感性もないのではないだろうか。

そうでないと、候補者を一本化した野党連合と野党連合を支持する市民を悪し様に
罵るはずはない。全体主義だというのだからあまりにもお目出度すぎる。

日本の政治状況はのっぴきならない状況にあり、猶予はないといえる。参議院選で
三分の二以上の議席を獲得した改憲勢力は、露骨に改憲へと舵を切っている。自民
党の憲法草案を斎藤美奈子は読んだのだろうか。

自民党が変えようとしている国家とは、「個人の自由と権利は何にもまして尊重さ
れるべきであるというリベラリズムの思想」など足蹴にされる国家であり社会なの
だ。

安倍政権は衆議院選挙をも視野に入れている。衆議院選で勝利し、戦前のファシズ
ム国家体制へと力強く邁進するためだ。ナチスの全権委任法に等しい緊急事態条項
が成立すればお終いである。

東京都知事選は国政ではない。国政の問題と切り離して、都民本位の政策論で争う
べきだ、という一見するともっともな発言がみられるが、戦前のファシズム国家体
制になれば地方の政治など顧みられることなく、国家へと権力が絶対的に集中され
てしまう。もちろん都民本位の政策論など成り立ちはしない。

斎藤美奈子は安倍政権に批判的なようだが、歴史的分岐点にあるという認識は皆無
のようだ。能天気にもほどがある。

その証拠が、「都知事選は戦争かよ。たかだか都知事選じゃないか」という信じら
れないような発言なのだ。

歴史的分岐点に立たされているという危機感が皆無なのだ。

先ず優先すべきは、安倍政権と自民党が戦前のファシズム国家体制へと歩を踏み出
すことを阻止することだ。阻止できなければ、「個人の自由と権利は何にもまして
尊重されるべきであるというリベラリズムの思想」と言ってたはずの斎藤美奈子が
ころっと転向して、新聞で戦争讃美を始めることになるのである。

斎藤美奈子は否定するだろう。だから先手をうって質問する。

あなたは中央の大新聞で文学の批評をやったり、コラムを書いたりして生計を立て
ているようだが、中央の大新聞は戦前の翼賛報道機関化しているが、そうした認識
をあなたはしているのだろうか。また、認識しているならば、あなたは大新聞のそ
うした動向を受け入れているのだろうか。どんどんと大新聞が大政翼賛化するとき、
あなた自身も引き摺られていく可能性はないのだろうか。

現に、TV
では体制に批判的な批評家が番組を降板させられている。未来の話しではなく、日
本の偽りのない現実であり、日本の危機的な政治的状況なのだ。そうした時に、
「個人の自由と権利は何にもまして尊重されるべきであるというリベラリズムの思
想」だと大上段に構えて、戦前のファシズム国家体制へと雪崩れて行こうとしてい
る時代と社会の歯車を必死で押し止めようとしている野党連合と野党連合を支持す
る市民連合を悪し様に批判するあなたの姿は、わたしからみるとお目出度い限りで
あるばかりか、真摯に自分の立ち位置を顧みず、時代と社会の空気を無視している
としか思えない。

わたしは鳥越俊太郎を全面的に支持してはいない。

むしろ批判的だ。

が、今回の東京都知事選においては鳥越俊太郎しかないだろう。

だから、野党連合が鳥越俊太郎に一本化したことを支持するし、野党連合を支持す
る市民こそ、わたしと危機感を同じくする人たちだと一体感を覚える。

安倍政権と自民党は、戦前のファシズム国家体制へと雪崩れて行く社会的空気の醸
成に余念がない。中央のマスメディアがそれに荷担している。ナチスに学べ、とは
情報操作とプロパガンダによるナチスを熱狂的に待望する社会的空気の作り方を学
ぶことである。

あちらの社会的空気に、こちらがどんなにすばらしい都民本位の政策論を振りかざ
したとて、極論すれば無意味である。

参議院選をみれば分かるはずだ。安倍政権と自民党は野党が掲げる政策までちゃっ
かりと盗んでいる。その政策を実行するかどうかなど二の次なのである。だから掛
け声だけで具体性がない。しかし、国民の耳には野党の政策も自民党の政策もほと
んど同じに聞こえてしまうのだ。その上、日常的に
TVと新聞が安倍政権をヨイショして、安倍政権に有利な空気を作り出しているのだ
から、どんなに素晴らしい都民本位の政策論争をしても、馬の耳に念仏である。

歴史的分岐点でなければ、まっとうな政策論争が意味をもつだろう。しかし、敵陣
営がイメージ優先の情報戦を仕掛けてくるのであり、戦前のファシズム国家体制へ
と雪崩れ込むための社会的空気を作り出そうとしているときに、都政と国政は別だ、
とか都民本位の政策論争主体の選挙戦であるべき、などと唱えたところで未来は切
り開けない。

戦前のファシズム国家体制と舵を切り、足を踏み出そうとしている安倍政権と自民
党を阻止するためには、東京都知事選に負けるわけにはいかないのである。そして、
東京都知事選に勝利し、その勢いをそのまま衆議院選へと持ち込み、衆議院選で勝
利する以外にないのだ。悠長に構えている猶予はない。

東京都知事選で野党連合が破綻して、衆議院選でまた野党連合が実現するなどと思
っているのは愚の骨頂である。民進党の右派を勢いづかせるだけだ。

共産党の志位和夫委員長は、どこの誰よりも本気だ。

日本の政治状況がそれほどまでに危機的状況だからだ。猶予はない。また選択の余
地もない。何を最優先すべきか、志位和夫委員長が迷うことなく提唱したのが国民
連合政府構想だ。

これまでの日本共産党の歴史からみても画期的な構想だ。

そして、共産党の党利をひとまず脇に置いたといえる。党利を脇に押しやっても、
日本の未来を守ることを選択したのだ。

日本を守るとは、日本が再び戦前のファシズム国家体制へと転がり落ちるのを阻止
することだ。阻止できなければ、日本は戦前の過ちを再び繰り返し、奈落の底へと
落ちていくまで引き返せなくなるのだ。

戦前のファシズム国家体制へと足を一歩でも踏み入れれば、斎藤美奈子が「個人の
自由と権利は何にもまして尊重されるべきであるというリベラリズムの思想」など
と決して言えなくなる社会が待っているのである。

志位和夫委員長は歴史的分岐点にすっくと立って、英断したのである。

どのような英断か。

目先の選挙で共産党が勝利することよりも、日本の未来を守るために闘うことを選
んだのだ。

東京都知事選に出馬するか、しないか、の英断などはるかに超えている。

東京都知事選も日本の未来を守るために位置づけられて当然だ。東京都知事選だけ
のための東京都知事選ではあり得ない歴史的状況であり、政治的状況にまで日本人
は追い込まれているといえる。

志位和夫委員長の英断は、正しく政治的リアリズムのよい見本だ。肉を切らせて骨
を断つ、という気迫を、わたしは国会議事堂前の志位和夫委員長の演説にみた。

わたしは不思議でならない。

どうして共産党支持者が、志位和夫委員長の政治的リアリズムにきづけないのだろ
う。

宇都宮健児を慕うのはいい。宇都宮健児のすばらしい都民本位の政策立案を絶賛す
るのもいい。しかし、日本の政治的状況は、そんなことが許されない危機的状況に
あるのだ。

ナチスの勢いを止められる機会があったはずだ。が、その機会は何度もあるもので
はない。勢いを加速させる手前で阻止するしかないのだ。

戦前の日本がファシズム国家体制へと転がり落ちていったのも同じだ。

丸山真男はなし崩し的なずるずるべったりとした移行だと表現した。無意識にずる
ずるべったりと引き摺られることなく、危機意識をもってずるずるべったりを断ち
切らなければならないのである。

ずるずるべったりとは社会的空気でもある。どんどんと社会的空気がファシズム国
家の色に染まって澱んでいくのだ。

澱んだ社会的空気を吹き飛ばすには、強力な風を巻き起こすしかない。

誤解を恐れずにいえば、宇都宮健児では強力な風は巻き起こせない。三度目の立候
補であり新鮮さもない。だから鳥越俊太郎なのだ。

斎藤美奈子は、勝てる候補を優先して選んだ、と批難しているが、当たり前だ、何
を寝ぼけたことをいっているのか、と言いたい。それほどまでに、東京都知事選挙
が重要であり、どうしても勝たねばならないのだ。

どうしてか。

斎藤美奈子が「個人の自由と権利は何にもまして尊重されるべきであるというリベ
ラリズムの思想」と言える社会を守るためだ。※
斎藤美奈子の能天気な発言に怒り心頭に発し、一気呵成にブログを書いてしまった。
怒りは収まらない。誤字脱字があるだろうが、推敲はしない!

〜以上。

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