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雑感日記

赤タンクのカワサキの時代ー2 1964年 

2010年04月26日 外部ブログ記事
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この年に『日本能率協会の調査報告』を受けて、
単車事業は本格的に事業として推進することが正式に決まった。

本社からの広告宣伝予算も3年間開発費として1億2000万円が支給されることになり、それを担当することになった。
2月1日に広告宣伝課がスタートはしたが、課長も係長も不在で苧野部長の直接担当でその次に平の私という不思議な構成であった。

広告宣伝課だから勿論広告関係の仕事もやるのだが、予算金額が大きすぎて、誰も経験がないし大変であった。
広告代理店だけはこの予算を目当てに、電通も博報堂も大広も出先ではなく本社からのアプローチで、当時の広告の最先端の企画担当者と付き合えたのは至極勉強になった。

金はふんだんにあるのでレースもここからと言うことになったし、あちこちの部門からこの予算目当てにアプローチがあった。
各部の部長さんたちから直接平の私に交渉ごとなどがあって、とにかく普通ではなかったのである。
結構、贅沢な使い方をしたのだが、この年は7000万円ちょっとしか使えず、本社の専務さんに『お前らは金をやってもよう使わん』と不思議な怒られ方をした。


★レース関係では、ライダー契約もほとんど実績のなかった若手に100万円近くの契約をしたり、
三橋実君が主宰していたカワサキコンバットに毎月20万円の運営費を渡したりしたのだがそれでも使いきれなかったのである。
ちなみに当時の私の年俸は40万円にも達していなかった時代の1億2000万円なのである。

広告宣伝費で下取りしてきた中古のヘリも持っていたし、ヘリコプターをあちこちに飛ばして代理店のお客を乗せたりもした。
4月からはこんなヘリの運営とレース担当に大西健ちゃんが来てくれて、レース場などにもヘリコプターを持って行ったりした。

当時カワサキはレース界では新入りではあったのだが、
スズキやヤマハの有名ライダーたちにヘリに乗せろと頼まれて、こんなことで仲良くなった。
6月にはヤマハの荒井市次くんが、
7月は城北ライダースの久保克夫くんや
当時のレース界での顔だった新明和の河村さんなどとも直接会って、話が出来るような関係にはなっていた。


★レースは4月25,26日MCFAJの朝霧高原での全日本モトクロスなどあったが、とても全日本レベルでは勝てたりはしないので、地方レースばかりを毎週広告宣伝という名目で出場し、そこでは当然優勝できるので、その結果だけは『優勝、優勝』と広告代理店の本部がパブリシテイで各地方紙に記事を流してくれたりして、『本当にカワサキは強いのか?』と業界の人たちまでが錯覚したのである。

当時のライダーは、
神戸木の実から山本隆、歳森康師
カワサキコンバットは三橋実、安良岡健、梅津次郎、岡部能夫、加藤清丸その他で
特にカワサキコンバットには、ライダー養成なども目標に20万円の運営費を渡していたので、全国から才能のある無名の若手がいっぱいいたのである。
星野一義や金子豊君も当時はそのone of themであった。

こんなライダーたちが毎週全国各地の『勝てそうなレース』を狙って何班かに分けて出場していたから、毎週のように『赤タンクのカワサキ』は優勝していたのである。

★こんな『どさ廻り』をやりながら、新人カワサキも徐々に実力を上げて、
秋ごろには、当時の御三家と言われた久保、荒井、三吉の『三吉一行』君もクラス契約などしてそこそこの実力になったのである。

私はレースは管轄していたが、直接は担当していなかったのだが、
9月10日に、当時の全国カワサキ会の会長をされていた荻原さんの地元で
『山梨モトクロス』が開催され、来年新発売の85J1 のモトクロスマシンの初登場と言うこともあって、直接レースチームの責任者として現地に行くことになった。

当時はまだ正式にレースチームの監督などはいなくて、カワサキコンバットの三橋がチームを統括していたのではと思う。
このレースもメカニックの統括として一緒に行ってくれたのが、田崎雅元さん(元川重社長、会長、現相談役)である。
彼はそのころは、製造部門にいてレースも色濃く手伝ってくれていた仲間なのである。

★この年の10月10日、東京オリンピック開会式の当日、
伊豆丸の山のMCFAJ全日本モトクロスでカワサキは4種目中3種目を制覇した。

さらに11月8日には、和歌山紀ノ川で
スポニチ主催の西日本モトクロスの開催にこぎつけた。
これはカワサキが熱心に仕掛けて実現したのである。
スポーツ紙がモトクロスを主催したのは、初めてであったし主催であったから当然記事は大きく報道された、
このスポニチのモトクロスはその後何回かシリーズで行われ、確か何回目かの加古川の大会には、全日本クラスのメンバーが出場する大会にまでなったと記憶する。

この和歌山のレースが星野一義が初めてレース場を走った実質デビュー戦なのである。


★1964年、昭和39年がカワサキが実質レース活動を開始した年である。
モトクロスだけで、年初はヨチヨチ歩きではあったが、1年でモトクロスでは確固たる地位を築く基礎だけは出来た。

当時のレースにいろいろ関係の会った人
山田てる明、苧野豊秋、中村治道、高橋鉄郎、大槻幸雄、田崎雅元、その後みんな偉くなられたが、
そのころはトップも成り立て部長、高橋鉄郎さんもまだ係長だった。

カワサキはレース以外、競合3社に勝てるものは何一つなかった時代である。
モトクロスと『元気、無鉄砲』さだけは、際立っていた。

『隣国の兵は大なり、その武器は豊かなり、その武勇は優れたり,然れども指揮の一点譲るべからず』
会合でのスピーチの度に、必ずそう言われた岩城良三さんが事業の指揮官であった懐かしい時代である。
(続く)


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