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平成の虚無僧一路の日記

山伏(修験道)と虚無僧の対比 

2016年06月19日 外部ブログ記事
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山伏(修験道)は、日本古来の山岳信仰に神道、仏教(密教)、道教などが
ミックスされた民間信仰として地域ごとに浸透してきた。
江戸時代のはじめ、熊野を中心とする天台系(本山派)と、金峯山を
中心とする真言系(当山派)で対立が起こり、江戸幕府は、両派の調停
として、慶長18年(1613)「修験道法度」を定め、山伏は真言宗系の
当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした。
虚無僧の「慶長の掟書」は、虚無僧達が捏造したものだが、
山伏(修験道)については、きちんと「法度(はっと)」が出された。
これにより、山伏は真言宗か天台宗の一派として公認されたことになる。
しかし、虚無僧同様、山伏にも いかがわしい加持祈祷や占いで
荒稼ぎする者も出、民間から毛嫌いされるようになる。それで
明治政府も、廃仏稀釈の一環として虚無僧と山伏に廃止令を出した。
普化宗の廃止は明治4年(1871)。修験道は翌5年(1872)に太政官
第273号「修験道廃止令」として出された。しかしその内容は
江戸幕府同様、「修験道を廃止し、本山派修験・羽黒修験は天台宗に、
当山派修験は真言宗に所属せよ」というもので、山伏は天台、真言
どちらかの僧侶となれば身分を保証するというものだった。しかし追い打ちをかけて「狐憑きを落すような祈?や口寄せのような
行為を一切禁止する」「吉凶占い、加持祈祷などを行った者は、
拘留または科料に処す」。「そのような行為を行う者がいたら
訴えるように」とまで通達や法令が出され、山伏としての収入源は
断たれることになる。
これで 全国に200カ寺以上あった修験道の寺は半数が打ち壊され、
18万人もいた山伏は壊滅姿したのだが・・・・。
山伏による病気平癒の祈祷などはできなくなっても、純粋に山に登って
修行するという「行」は残された。
そして戦後の信教の自由で、山伏は「修験宗」として宗教法人登記される。
現在は、「聖護院」を本山とする「本山修験宗」、醍醐寺を本山とする
「真言宗醍醐寺派」。これに天台系の金峯山金剛峯寺を本山とする
「修験本宗」の三派。その他に 羽三山、日光ニ荒山など、地方単立の
山伏の組織がある。
山伏と虚無僧は 在家仏教という点では似たもの同士だが、山伏は
皇室との結び付きがあったこと、聖護院や醍醐寺三宝院、三井寺等、
由緒格式ある寺院を本山としてきた。そして山伏は明治初年18万人。
現在でも 1〜2万人居るとされる。虚無僧は江戸時代でも数百人。
そして現代では 百人ほど。数でも圧倒的な差がある。
 
 

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