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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧 元は10万石 

2016年05月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「虚無僧」で検索していたら、こんな話を見つけた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・戦国の世が終わって、江戸時代の初期。没落して牢人となっていた「立花宗茂」。元は10万石以上の大名格の武将だった。しかし牢人の身、その日の生計にも窮していた。そこで、忠臣「十時(ととき)連貞」が、なんと虚無僧となって、江戸市中を門付けして歩き、喜捨を得て、主人の食を支えていた。その「十時連貞」がある時 虚無僧で門付けしていると、無頼の輩三人にからまれた。「十時」は 係りを避けて逃げるが、彼らは執拗に追ってくる。札付きのチンピラ共。「十時」を取り囲むと刀を抜いた。「虚無僧、顔を見せろ!」と、天蓋を真っ二つに切り裂こうとした。すると「十時」は、尺八で応戦し、相手の刀を奪うと、あっというまに三人を切り伏せてしまった。そこへ、騒ぎを聞きつけた捕吏が駆けつけ、虚無僧「十時」は召し捕らえられた。虚無僧は、おとなしく縄につき、取調べをうける。そして、「拙者は 立花宗茂が臣、十時連貞と申す。騒ぎを起こしてはまずいと一度は逃げ、穏便に済まそうと思ったが、相手が分を弁(わきま)えず 刀を抜いてきたので、身を守るため、致し方なく応戦した次第である」と騒ぎの顛末を臆することなく弁明した。浪人中とはいえ、かつては10万石以上の大名格の「立花宗茂」の家臣。捕吏は上役に報告。「土井利勝」の耳に入るまでになってしまった。その結果、「土井利勝」の裁量で「十時」は無罪放免。「立花宗茂」は「御書院番頭」として徳川家に仕え、奥州「棚倉藩」 万石の藩主に取り立てられた。後、旧領の九州筑後「柳川藩」10万9,200石に復帰し、「十時」は1000石を与えられた。寛永14年(1637年)の「島原の乱」にも 主従出陣している。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「立花宗茂」は文武両道に優れ、人望もあり。関が原では徳川家康の誘いを断って、豊臣の恩顧に応えるため西軍石田光成に付き、敗れて改易された。後、柳川藩主に復帰。「立花宗茂」も「一節切」の名手だった。知る人ぞ知る大名だが、その家臣「十時」や「由布惟信」等、家臣たちが虚無僧をして、主君の生活を支えたという話は、ついぞ知らない。

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