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平成の虚無僧一路の日記

「海童道」の門人から聞いた話 

2016年03月31日 外部ブログ記事
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「上野霄里(しょうり)先生の 『賢人の庵』」というブログに掲載されていた文です。 (一部抜粋)【海童道(わたづみどう)】今から二十数年前のこと、静岡の読者から「尺八に生きている仙人のようなひとりの人物」のテープが私の所に送られてきた。この尺八の吹き手「海童道」に それから暫くの間 私はさして気も留めないでいた。六十歳の年が過ぎてからである、私は尺八を習いだした。その為、月に数回、片道二時間余をかけて盛岡まで通った。しかし何年かを過ごしているうちに、私は尺八通いを辞めた。「尺八を定具」と呼んだ「海童道宗祖」に出会ったのである。いや、宗祖には 生前中一度も会ってはいない。私の読者である静岡の友を介して今の私は、平成四年に亡くなっている宗祖の弟子になった。彼から、宗祖が生前中に 伝えられていたという言葉の数々が、時に応じて 私の所に伝えられた。しかも私を喜ばせたことは、この友が、かつて海童道宗祖から戴いたという、二尺余のものを持ってきてくれたことである。私は 今も尚 その定具を持っている。この竹には全くその内側に漆は塗られていなかった。この定具は宗祖自ら手作りしたものだと聞いている。宗祖はどんな人物よりも孤高の存在であったという。宗祖は暫く身を置いていた「普化尺八」の学校長の立場から身を退き、「琴古流」や「都山流」といった尺八会からも決別して、全く自分になりきった。ある尺八の名手は「海童先生は普化禅師の再来と思えてならない」と言っている。宗祖は この世のあらゆる文化的行為に妥協することなく、自分自身を貫いて生きたようだ。文明の世の中で当り前に過ごす人々には、宗祖はあらゆる点で奇行の塊のように見えた。宗祖の弟子となっていた多くの尺八吹きは、「近寄り過ぎたら喰われそうで恐ろしかった」とも言っている。宗祖は常に「一生が修行である」と言い、他の尺八吹きや国宝と言われた人々と違って、毎日が修行の連続であったようだ。この事を言ったものか「破格であれ」と言うのも口癖のようだった。その一面、とてもお洒落で、生き方の態度にも何処か芝居がかったところがあった。又「何々組みの親分」とも仲良くなり、それを自慢して話すところも見られた。宗祖が定具(特に十七歳で亡くした長男が造った定具)を口にすると、えも言われぬ妙音が、其処に居る全ての人を包み込んだようである。虚空の名音とは此れなのかもしれない。海童道宗祖がごく僅かだが書いている哲学的な言葉の中に、「実践哲理」と言うのがある。普通の人には殆ど理解されず、文明を離れた清らかな人物にだけ分る言葉が其処に含まれている。人間の有形無形に働きかけてくる自然の力と言うか、道徳の彼岸に存在する倫理に近いものを、宗祖は「作用」と呼んでいる。この「作用」には様々な形式があるが、それを「吐く」、「掴む」、「伸ばす」と言う三つの言葉に収斂している。宗祖は又、「響流(ごうる)」と言う言葉を多く使っている。此れは元々「無音」のことであり、其処から「有音」に変わり、更にその「有音」から「無音」に変わるとき、其処に「響流」が生まれる。しかし「響流」の中に時々現れる有音があるが、宗祖はそれを雑音の類いに扱った。その雑音を、宗祖は「無装飾無調音」と呼び、「猫の跳躍や赤子の泣き声、落葉、車のきしむ音などをそういう音だ」として説明している。有音から無音に向かう時間の中で「余音」というものがあるとも言う。無音に入る手前でどんな有音も一瞬余音を残すのである。私達はこの「余音」を理解するにはどうしても深い人間的な魂のゆとりが必要なのである。こういう魂の動きを、宗祖は「独境」と呼んでいる。恐らく現代人の我々にも文明の彼方の自然を理解するには、この精神境地が必要なのではあるまいか。宗祖は音楽としての尺八を捨てている。つまり「余音」を否定しているのである。人前で吹定すること自体 否定的である。合奏も馬鹿なことだと考えていた。私はこんな宗祖の言葉を静岡の友人を通して、とうにこの世を去った宗祖から毎週聴いているのである。私の生き方の中には、海童道宗祖が今なお生き生きと生きているのである。私の生き方の全域で、彼は生き生きと何かを教え続けているのである。

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