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福島正則、広島城改築事件 

2016年03月25日 外部ブログ記事
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戦国の猛将福島正則(余り子孫が、歴史に登場しませんが?)

居城「広島城を破壊せよ」という、2代将軍徳川秀忠の命令への対応
武将にとり、城はプライドの象徴、屈辱を受け入れ生き延びるか、誇りある滅びを選ぶか?
日本の運命を決めた猛将vs将軍戦いのの行方は?
NHK英雄たちの選択参考&引用








福島正則(ネットより他引用)

福島正則の豊臣政権時代
武将・大名(賤ヶ岳の七本槍、七将の一人)として秀吉の信頼も厚かった
豊臣秀次が切腹させられるという大事件では、秀次に切腹の命令を伝えている
正則は、石田三成らと、朝鮮出兵問題で、仲が険悪になる
前田利家の死後、加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている

福島正則の関ヶ原戦
正則は、三成挙兵で動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約
岐阜城攻めでは、黒田長政らと共同で城を陥落させる
正則は、戦後安芸広島と備後鞆約50万石を毛利から得る

福島正則広島藩へ
正則は、領内を巡検するとともに、検地で石高の再算出を行った
安芸最西端の地に、亀居城の築城し、毛利領最東端の岩国城に対する城とする
江戸幕府による諸城修築の動員に参加して、徳川幕府へ忠勤に励む
豊臣家を立てることも忘れず、秀頼が病を患うと、正則は見舞に大坂城へ駆けつけている

福島正則広島城無断で修理&改易
台風による水害で破壊された広島城
正則は、本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反に問われる
正則は、2ヶ月前から届けを出していたが、幕府からは正式な許可が出ていなかった
将軍より、正則は、城の「破却」を命じられる
正則は、本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置いた
「破却が不十分である」将軍の命により、安芸・備後50万石を没収される
越後国魚沼郡の4万5千石に減封・転封される

福島正則晩年
移封後、正則は嫡男忠勝に家督を譲り隠居した
領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残した
正則死去後、幕府の検死役が到着する前に、家臣が正則の遺体を火葬した
結果、福島家は取り潰され、正則の子福島正利は、3千石を与えて旗本にされた

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