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平成の虚無僧一路の日記

私の父方(牧原)と母方(山室)の先祖 

2016年02月21日 外部ブログ記事
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私の両親共、先祖は会津藩士でした。その出自が明らかになりました。
信州高遠、わずか2万石余の保科家に預けられていた「保科正之」は、
二代将軍「秀忠」の落胤であり、三代家光の弟ということで、会津23万石の
太守に抜擢される。石高で10倍の大出世。高遠藩では家臣は200名ほど
しかいない。それが23万石となると、家臣は3000人も必要となる。
そこで大半が新規採用だった。
私の父方の祖「牧原只右衛門直源」は紀州徳川家から移籍した。
紀州藩としては、家臣団を抱えすぎてリストラしたかったから好都合だった。
そして牧原只右衛門は、側用人(秘書室長)にまで出世した。
 
一方母方の山室丹後は「高遠以来の家臣」ではあったが、家は堀の外。
つまり郭外で城普請役。100石の土木課長止まりだった。それが長い間の
疑問だった。
山室氏は元は房総の国人だったことが判明。現千葉県山武市の山室城跡が残る。
その山室一族は家康配下の「保科正直・正光」父子に攻められて滅ぼされた。
当主以下多くが討ち死にしたが、一族の「山室丹後守」は生き延びて、
保科正光に登用される。保科正直・正光はその後10年間、房総の多古
一万石の城主となっていたのである。 そして、1600年の関が原の時、
浜松城を守り、その功で旧領の高遠に2万5千石で戻るのであった。
その後に二代将軍「秀忠」がお手つきして生まれた子が、高遠の保科家に
預けられる。その子が会津藩主「保科正之」である。
つまり、母方の「山室」は「高遠以来の家臣」とはいっても、保科と敵対して
降伏した国人だったので、「外様」扱いだったのだ。

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